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フリッツ・ラング スピオーネ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

フリッツ・ラング スピオーネのページです。

フリッツ・ラング スピオーネ

 
 
世界を裏で操る謎の諜報組織と、警察の諜報特務員との熾烈な対決を、躍動性と速度でつづったフリッツ・ラング『スピオーネ』(28)は、前作『メトロポリス』(27)の巨大性、蕩尽性を排して、『ドクトル・マブゼ』(21-22)の時点までラング自身が「回帰」をおこなったものだと一般的に解釈されている。じじつ日本をふくめた国家間の秘密協定文書を、異様な情報力・組織力でほしいままに強奪する巨悪の根源ハーギには、マブゼ博士を演じたルドルフ・クライン・ロッゲが起用されていて、配役面でも両者の連続性が打ち出されている。

とはいうものの、『スピオーネ』のハーギ=ロッゲは、車椅子に座り続ける「司令塔」(最終的には脚の不自由が虚偽だったとわかる)で、陰謀の遍在性を世界にしるしづけるものの、それ自身の身体の神出鬼没性は、マブゼ博士のようには描写されない。だいいち、マブゼ博士にあった動物磁気がない(催眠術によって諸人に破滅を「代行」させるマブゼとはドイツ的寓意だった――だから『ドクトル・マブゼ』を念頭にした黒沢清『CURE』がまずメスメリズムを引き入れて、それを中心に「オウム」「統合失調症」との三幅対を提示したのは現代的な寓意として決定的に正しかった)。

同時にマブゼにあったのは、人間の視覚そのものを不安に陥れる変装能力だった。彼のうえには「別のもの」がたえず生起した。ところがその動物磁気的な眼だけが不変だった。変成の芯に「変わり切らないもの」があるという認定は、憂鬱でもあったはずだ。

『スピオーネ』のロッゲは、最終的には道化師に変装するものの、ハーギ銀行の頭取ハーギという表の顔と、謎の諜報組織の巨魁という裏の顔、つまり表裏の二面性しかもっていない。作品が多面性を発揮するのは、彼のもとにいる数々のスパイ、彼の息のかかる東欧、ロシアなどの外交工作員、彼が恐喝する阿片中毒の有閑マダムなどが、蕩尽的な速度で「展覧」され、実際に逸話を蕩尽してゆくからだ。彼らは現れては消える「関係性」で、そこでは都市的な速度が転写されている(ここがゴシックロマンス的な残滓を漂わせていた『ドクトル・マブゼ』と異なる)。したがってセットの多く――とりわけハーギの司る諜報「本部」のデザインも、表現主義から離れ、ドイツ的なアール・デコともいえる「新即物主義」へと模様替えされている。ドイツ的な「重さ」を捨てての、ハリウッド映画への接近。そうした表情があって、『スピオーネ』はドイツでヒットを記録した。

『メトロポリス』が巨費を蕩尽したのは、セットの巨大さのなかに速度を刻印しようとする不可能を志したからだ。映画の速度は「寄り」ショットを素早い編集でつなげば、簡単に実現できる。『スピオーネ』はそれで金庫をあける何者かの「手」のアップから始まり、以後も「男女の握り合う手」「未来型電話をかける指」「ワイングラスを差し出しながら少し握りをひらくことで真珠の首飾りをしたたらす手」「事故で破壊された車両の床の割れ目から伸びる手」などと、接写された手の表情のゆたかな変奏をつづける(やがてはそれに「足先のアップ」も加わる)。

とりわけ謎の諜報組織の、ほしいままな犯罪と世間の騒ぎをしるす冒頭三分ていどのスピード感が圧巻だ。そこではクルマからの文書の強奪、といったいわばリアルな次元の短いショットが挟まれながら、盗んだオートバイの乗り手の、風防眼鏡とヘルメット姿に現れる高笑いを異様な仰角で捉えたショットや、事件をセンセーショナルに報じる電波塔のアニメ的な電波の放電などが短い時間単位で連続してゆく。これらはリアル次元の異なるショットを織り合わせた「衝突のモンタージュ」であって、エイゼンシュタインに代表されるソ連型モンタージュの、ラングによる転位と呼ぶべきだろう。フリッツ・ラングはスピードが美的と知るのみならず、混淆が美的だとも知悉している。

多面性をしるしづけるために動員された、諜報にかかわる全人物は、動物磁気ではなく、機能的、ロボットのような行動をする。その交錯が速いから作品全体がブラウン運動を観察しているときのような音楽性をもつことになる。カット頭とカット尻がぶつかりあうときの音楽性を、眼で聴け、と作品は指示している。だから女スパイたち(ヒロイン・ソーニャ役のゲルダ・マウルスと、美的リリーフ機能ともいえるキティ役のリエン・ダイアース――どちらもこの『スピオーネ』のあと、スター女優となった)は「色仕掛け」によって対象を「確実に」落とすし、ソーニャにいたっては、自らの色仕掛けが「反射」されて、「木乃伊とり」式に、(浮浪者の扮装を解き、無精髭を剃って、本来の美男ぶりが現れた)対象・326号に「機能的に」一目惚れするのだ(のち、ロシア秘密警察によって無実なのに父とともに処刑された実兄に生き写しだったという説明の尾鰭がつく)。

出会いがそのまま恋、というのは艶笑劇の文法で、それが陰謀劇・アクションドラマの全体に包含される。ただしこの混淆はあまりうまく行っていない。本来なら諜報員どうしの恋愛交錯は、底意と身体記号との葛藤を形成するはずなのだが、恋愛描写が不得手なラングは、俳優身体の恋愛記号を「丸出し」にしてしまう。

陰謀組織の派手な連続犯罪に業を煮やした警察が、浮浪者に扮装して諜報活動をしていた326号を呼ぶ。彼の敏腕は、その場にいて自分の姿を捉えようとした男の、ネクタイ脇の小型カメラを一瞬にして見抜くことで間接的に伝えられる。それでもその写真はハーギのもとに入手された。ハーギは色仕掛けで326号を籠絡する対抗要員として、ロシア出身の女スパイ、ソーニャを呼ぶ。326号が仲間との活動起点にしていたホテルの一室に、警戒しつつ入ったとき(しかし夜の屋根屋根を伝ってゆく描写はコミックにちかい)、近くで銃声がした。緊急避難的に入ってくる女。無理難題をいう芸人の親方をおもわず撃ったという(のちこの一件は、胸の手帳が弾止めになり男は死ななかったという事実提示により免罪符がつく)。警察の手入れもはじまり、326号は髭剃りの泡で頬を隠した中国人に変装(ギャグだろうか)、ソーニャを奥の間に隠す。これらはすべてソーニャ側の描いたシナリオだ。そして326号は前述のとおり、一瞬にして美貌のソーニャへの恋に落ちる。

作品の時点でハーギが最終的に狙うのは、日本が交わす秘密外交文書だ。取引の当事者は誰か。それをどうやって盗めるか。錯綜するストーリーを端折ると大概は以下のようになるのではないか。当事者に探りを入れるため前述の阿片中毒の有閑マダムを恐喝する。東欧系の名前をもつイェルシッチ大佐(彼にもソーニャが色仕掛けで迫っている)には文書の横流し(漏洩)をもちかけ彼をオリエント急行で国外退去させる(ところがイェルシッチ大佐の不穏性をつかんだ警察=326号の踏み込みに先駆け、ハーギの命令で彼は自殺に追い込まれる)。

日本人諜報員マツモト・アキラ博士は成約文書の日本への搬送に迷彩を盛り込んだが、ついにそこから組織は文書を盗むことに成功、彼を「切腹」に追い込む。ロシア大使の国外移動に疑念をもった警察=326号は大使とおなじ長距離急行列車の隣室に潜りこむが、その情報をつかみ組織は列車事故を仕組み謀殺を企てる。しかしそれに失敗、ロシア大使自身もまた服毒自殺に追い込まれる。ところがイェルシッチ大佐がオリエント急行から局留め郵便を出した事実を警察=326号が掴み、文書を開陳、そこにある送金用の紙幣(番号が書きとめられる)がどこに送金されるかで、巨悪の中心の特定がはじまる。判明したのが、ハーギ銀行の頭取ハーギだった。

ハーギ銀行への査察。窮地に陥っていたソーニャを救出するが、銀行内(そのなかに諜報組織「本部」もあった)からハーギは消え失せている。けれども結界が張られ、結界外への脱出は不可能だ。どこかにいる。そのときハーギに送られる紙幣の番号を工作のため電報段階で書き換えた人物が警察内にいることが判明する。自分の持ち場を離れられないことを理由に諜報組織の調査を断った719号がそれだ。彼は道化師に扮装して活動していた。とすれば、ハーギ自身が「いま」道化師に扮装しているのではないか――。

無声映画で文字的な情報が少なく、これらの一連が実際にどう因果的な連絡性をもっているかは、『スピオーネ』の自作脚本をノベライズしたテア・フォン・ハルボウの小説にでも当たってみないと不分明な部分もある。作品は疑惑の人物の次々の浮上に、切迫した呼吸をはきだしてくるだけだ。おもえば作劇が章分けされていた『ドクトル・マブゼ』では挿話全体が数珠状に組織されていたのにたいし、人物が相互連絡性を一瞬装填されては明滅し蕩尽されてゆく『スピオーネ』では挿話全体が「房」状に組織されている。だがラングはクライマックスでその房をよじりあげ、葡萄酒原液をしぼりあげるような快挙にようやくいたる。

重たい物質、さらにはその驀進が必要だった。たとえばハーギの情報収集力をしめすため、「本部」のハーギの机まわりには、『メトロポリス』を経過したからだろうか、未来型の通信機器が完備されている。プッシュホン式の据え付け電話のみではない。新聞を吐き出すファックスのような機器、メッセージが流れる電光掲示板……。しかも人物群は「機能的に」諜報合戦をおこない、「機能的に」恋をするから、行動の規範もこの作品では軽いのだ――陰謀の世界内遍在性がしるしづけられても。だからロシア大使の乗る急行列車にひそかに同乗する326号を、列車事故で諜報組織が謀殺しようとするくだりで、機関車や列車の「重さ」が驀進しだすと、画面が急激に活気づく。手順はこうだ。326号の乗る番号「33133」の車両(最後尾車両)の連結器を、列車が長いトンネルに入った時点で切り離す。必然的にその車両のみゆっくり停止する。同時に付近の鉄路の転轍機を細工して対向機関車を、停止した車両に当てようとする。すべては乗客の就眠時間の工作だ。

文書の強奪、恋愛的仕種、銃の発砲とはちがう次元で、物体が物理性をともなって驀進してくる。だからカッティングが緊張する(これがロシア大使一味を追っての、サドルに326号、サイドカーにソーニャを乗せたオートバイの爆走シーンの異様なスピード感に結びつけられる)。緊張感に寄与したのは、切り離されて進みつづける側の車両に乗っていたソーニャの無意識に、謀殺用の数字メモ「33133」がひっかかって、それが驀進する列車の画像に記号的に反復され上乗せ(重ね焼き)されるからでもある(『ドクトル・マブゼ』での中国名の再現)。

「33133」という数値自体にはゾロ目の不気味、転倒しても同一である不気味、回帰的不気味などが装填されていて、もしかするとこれは作品構造のなにかと同調しているかもしれない。ルート記号をもちいた私書箱番号(しかもそれは文字消滅する)とともに、『スピオーネ』の記号体系は「不安」を表象している。

けれども目覚まし時計をセットして就寝を決め込んだ326号(作品の前半、浮浪者扮装時代の326号の描写にその伏線がある)を事故前に起こすものがあった。幸福を導くという触れ込みでソーニャがあたえた、ロシアイコン的なマリア像をあしらったペンダントが、彼の鞄から落ちて、眠っている326号の頬に当たったのだった。ソーニャの部屋のベッドの上壁にもロシア正教由来のイコンによる祭壇がかたどられていて、ソーニャはスパイの身でありながらも敬虔とわかる。したがって数値に代表される『スピオーネ』の不安な記号体系と、このマリア像ペンダントが「対決」していたことになる。

話をもどそう。「重いものの驀進」と同等の効果が、空間集中的にあらわれたディテールがもうひとつある。警察の手入れ(査察)がハーギ銀行に入ったクライマックス。仲間とともにソーニャは椅子に縛りつけられている。両手はそれぞれの椅子のアームに、脚は足首のところで括られて、それを椅子につながれている。しかも時限爆発がしかけられた窮地にいる。彼女は上体を片側に折り、同じく椅子にからだを縛りつけられている仲間の、その手首のいましめを何とか噛み切ろうとしている。ところがそれがなった途端、見張りに感づかれ、以後は敵の見張りと仲間の格闘がはじまる。このとき拳銃が彼女の足元に転がり流れてくる。仲間と敵は揉みあって膠着しているが、拳銃が敵の手中に渡れば万事休すだ。彼女は動きの自由幅のほとんどない足先で、何とか拳銃を自分側に引き寄せようとする。

この動きは、縛られて全身が動かせない状態でおこなわれるから、いわばマゾヒズムというよりも、それ自体の物質的な身もだえがかたどられている。ここではからだは重たい。うごきは極小幅のなかで、自らを斬り込むように「悶えている」。そう、その悶えこそが、身体の驀進と同位なのだった。物体自体のエロチシズムと連絡しているからだ。

『ドクトル・マブゼ』と比較して、『スピオーネ』にはドイツ的(あるいはユダヤ的)寓意性が少ない、と前述した。カフカの書きものや、エルンスト・ブロッホが『未知への痕跡』で採取した体系にあるものだ。ところが一か所、慄然とするディテールがあった。日本の機密外交文書をマツモトが部下三人に、日本に密かに運べ、と指令する場面。三人それぞれにマツモトは封書を渡す。うちのどれかに本物の文書が入っているが、三人の運搬人自身どれかは知らない。ともあれそうすることで強奪を企む敵からのリスクが分散する。自分だけが国家的使命を帯びていると信じて運べ、とマツモトは命ずる。

時間経過(いくつかのシーンが跨れる)。ハーギのもとに三つの鞄が届けられる。ハーゲがそれぞれから「あの」封書を出す(つまり三人の使者が惨殺されたという暗示がこの時点ですでに存在する)。中身を開陳すると、「どれもが」新聞紙、つまり何かを秘蔵していると示す迷彩にすぎなかった。マツモトはいわば敵を欺くため部下に無を運ばせたことになるのだが、無が三乗に重複している点が意味論的な脅威だ(これは『死滅の谷』内「第二の灯の物語」で、ヒロインが一人のメッセンジャーに、「殺しを企てる者」「愛の成就を願う者」双方への手紙を重複的に運ばせることの変形だ)。しかも命を懸けさせて、「無」を三人にまで運ばせる累乗性の幻惑。意味は「代行」の本質的な無為に届いている。むろん「メッセージは届かない」。これとは逆に「メッセージが届く恐怖」を唯一想定することもできる。これだ――《この密書を運び来た者をこの内容の確認後、ただちに殺めよ》。伊藤大輔『下郎の首』でそれは実現される。

日本の外交機密文書はマツモト自身がもっていた。それをけっきょく彼は、父母の虐待から逃げ出してきた哀れな家出少女という「触れ込み」のキティ(むろん女スパイ)に奪われる。自責の念に駆られたマツモトは仏像の前で切腹して果てる。マツモトとキティの場面は国辱映画を観る愉しみで躍動する。「婦人画報」のあしらい、キティの「キモノ」の帯の結びが出鱈目な点など。最初、ずぶ濡れの状態でマツモトの住居に引き入れられたキティは、裸身にキモノを羽織る。その前袷が開きかかって、白い乳房のふくらみが垣間みえる瞬間が、この作品で最も衝撃的なエロチシズムだった。
 
 

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2012年10月15日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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