田中宏輔・The Wasteless Land.Ⅶ
田中宏輔は詩篇生成に驚愕をあたえる数々の発明的技法をもっている。「会話詩」「数式導入(数学的記述)」「(同性)性愛抒情詩(あるいは自序詩)」「序数詩(行数そのものを主題とした詩)」「主題別の短詩集成」……いずれも地名導入や植物描写などで具体性に富む。だから思弁的であっても、一部の現代詩のように可読困難性に向けて抽象化したりしないし、専門領域をトッコにした自己模倣化もしない。模倣ということがあるとすれば田中宏輔は「世界にあること」そのものをことばに模倣させようとしていて、結果、最終的には現れた詩篇が、織られた詩集が、田中宏輔個人を超えた普遍的な世界構造、その肌理をそのまま「転写」するものとなる。そこに博識、ケンカイ、偏執、逆説、無への戦慄的な展望、といった彼特有の「しるし」がつけられる。
ぼくが初めて接した田中宏輔の詩集が、『Forest。』だった。そこでは上にまだ書いていない発明的技法「引用」が展開されていた。「引用」といっても入沢康夫や吉岡実など戦後詩が達成したやりかたに準拠しているのではない。詩篇の各行が「すべて」徹底して引用され、引用の「並べかた」以外に「自己」がない、「偏執的にして脱偏執的な」組成が選択されているのだった。文献蒐集性という点でいえばベンヤミン『パサージュ論』とも印象が相似的になるが、一行程度の引用部分が並べられ、出典が明示されるその見た目は愛読書展覧につながるブッキッシュ・ライフ(これはナルシシズムに関連がある)をつたえつつ、「同時に」詩を書く自己が徹底的に欠落している点で、非ナルシシズム的な「陥没」「恐怖」をも分泌してくる。
読みは錯綜する。引用部分だけ通読すればそれは意外性やユーモアに富んだ文脈を形成するのだが、典拠を確認してゆくと、そのたびごとに読みの連続性=リズムが寸断されることになる。結果、一度目は「全体」をズタズタに切断されながら読んで、二度目に典拠を無視して、引用によって成立している詩行部分の音楽性を味読、三度目に典拠に仕掛けられた「罠」「狡知」に讃嘆する、といった仕儀になるだろう(何しろどこからでも恣意的に採取できるはずの「そういえば、」などでも「メーテルリンク『青い鳥』第四幕・第八景、鈴木豊訳」などと「典拠」がついているのだった)。いずれにせよ、初読時に三度の読みの必要を予感させる点で、詩篇空間は複層的で、脱自体性、猶予性を帯びているといえる。これこそが実は「世界構造の転写」なのだった。
むろん世界はそれ自体のパーツでできていると同時に、書物によってもできている。書かれるものはたえずすでに誰かによって書かれたものの反復、反響、リトルネロであって、その意味で独自性の発現は、本質的に不可能だ(という仮説)。田中宏輔にとっては、独自性は個人を取り巻いた時空の個々、その「偶然性」に峻厳に限定されている。そしてたぶん、そうした偶然性と接続される「世界反響性」のほうが重要なのだ。
田中的「引用詩」から透視されるブッキッシュ・ライフは尋常ではない。励行的転記、一覧化、主題検索化、乱数化、再構成、文脈つなぎのための再探索……つまり田中宏輔型の「完全」引用詩では、洒落ではないが「編集」とともに「偏執」が必須条件となるしかない。それは豪華で世界愛にみちた「展覧」だが、その同量で、貧弱と悪意も仕込まれている。引用に現れた詩行は決定的だが、詩篇における作者の位置は韜晦され、決定不能性を指し示すしかない。そうした構造的多元性を取り逃がすと、書かれたものは「ただの幻惑」になってしまうだろう。
『Forest。』に続いて「引用詩」を数多く集めた『The Wasteless Land. Ⅶ』がこのたび上梓された。引用詩という方法にかかわる見解は上記のままでいい。詩集所載の「完全」引用詩篇に上記はそのまま妥当するだろう。ところが妙味は、「完全」引用からの逸脱を『Forest。』よりも過激にしるしている「内部崩壊」部分が混成されている点だろう。
「Sasahara Tamako」の現代短歌の一首ごとの引用に、「欲望」の動勢を一行ごとに交錯させ、短歌の作品的な自立性を相対化してしまった詩篇「Opuscule。」は田中的「反響」主義の産物といえる。短歌にたいする田中の興味はこの詩集にさらに開花していて、斎藤茂吉の短歌をボードレールの特殊感覚と二重写しにして引用する「『斎藤茂吉=蠅の王』論。」では結果的に引用詩と偏執的評論(しかし主張は検討に値する)の混淆が起こり、この詩篇を受けた「ペルゼバブ。」では「蠅から見た斎藤茂吉の描写」というさらに小説的な結構まで加算的に導入されてゆく。
「反響」は確実性のない世界では「変奏」をもたらす。反響のうつくしさとは、変奏の不安であり、その不安もまた「うつくしさ」に呑まれるのだ。三好達治、カフカ、高橋新吉の「鳥籠」にかかわる直観を受けて、詩篇が変奏的に展開され、それでも相互の相似=模倣をもかすめてゆく構造的な仕掛けをもった「Pastiche。」から、そのカフカに触発された部分「Opus Secundum」を、詩行アタマの序数を割愛し、すべて一行アキにして引こう(冒頭一行にのみ、「カフカ『罪、苦悩、希望、真実の道についての考察』一六、飛鷹節訳」という典拠が下記される)。ここでは「ないもの」が虚無の苦悶ののち、どのように自己展開され、それが智者に幻惑をもたらすかが、論理性の詐術をもって戦慄的に定着される(それでも用語が平易のままである平衡感覚=運動神経が驚異=脅威なのだ)。
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鳥籠が小鳥を探しに出かけた
いまや、鳥籠は、自分自身のもとへ帰って来た。
世界は割れていた。鳥籠は探していた。
鳥籠は鳥籠のなかを、ぐるぐる探し廻る。
鳥籠は奇妙にもあの童話のぶきみな人物にも似て、目をぐるぐるまわして自分自身を
眺めることができる。
しかし、鳥はいっかな姿を現そうとはしなかった。
聞こえるのは、鳥籠の心臓の鼓動ばかりだった。
鳥籠は鳥籠のなかを、ぐるぐるもっと強烈に探し廻る。
突然、鳥籠のなかに無限の青空が見えてくる。
鳥が見える。そして、鳥しか見えない。
鳥籠はどこにいるのか。
鳥籠の鳥は、実は鳥籠自身だった。
鳥は籠のない鳥籠である。