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ロック的統覚 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

ロック的統覚のページです。

ロック的統覚

 
 
【ロック的統覚】

ロックという思考と身体の媒質的連続性が60年代後半、一挙に爆発的に開花し、十年も経たないうちに収束したのはなぜかをよくかんがえる。圧倒的な集中性と展開力がしるしづけられたのだ。

先行者はいる――ビートルズとディランだろう。ビートルズでは全円性のなかに脱力とテンションで陥没と歪みをつくったジョン・レノンの存在が大きいのではないか。一方のディランはその並列列挙の詩法で空間に速度をつくりあげつつ、自序の方法にレノンと匹敵する「分裂」をもちこんだ点が特記される。結果、このふたつの要素が化合され、ロックは媒質的な自動性に駆りたてられたとまずはいうべきだろう。むろんここにヘロイン、LSDといった「媒介」、ブライアン・エプスタインやジョン・ハモンドといった音楽ビジネスの「延焼者」の存在も関わってゆく。

こう捉えると、ストーンズの影響が小さかったように錯視されてしまう、マイナー存在だからと。それでもニール・ヤングはバッファロー・スプリングフィールド時代の「ミスター・ソウル」で内向的・断絶的なストーンズを、フランク・ザッパは『フリーク・アウト!』でのいくつかの曲で、あきらかに曲のモデルをストーンズ、とりわけ「サティスファクション」に置いていた。ギターリフの前置によって、ロック的焦燥をコンパクトに展開しきるという形式がそれだ。

ところが「サティスファクション」はのちオーティス・レディングがカヴァーして明らかになるように、ジェームス・ブラウン的なソウル唱法の「叩きつけ」とリフの融合という独自の境地を単独に達成していて、ストーンズ内でもいくつかの例外を除いてしか継承されてゆかない。ましてやそれはハードロックの祖形でもない。その栄光はどちらかというと3コードを「転調」配分して、リフをフレット上のコードのズラシに変えたキンクス「ユー・リアリー・ガット・ミー」のほうに帰せられてしまう。

そのなかでストーンズが鉱脈をみいだした悪魔主義は、ロックの影響力行使という点で自己内在的な問題系をつくりあげた。際限のない自己速度化によってやがて自己拡散にまで移行してしまう恐怖。これは「風俗的には」ヘビーメタルにまで飛び火してゆくが、ストーンズは傑作アルバム『メイン・ストリートのならず者』の時点で自らにブレーキをかける。悪魔主義がたとえばロバート・ジョンソンのブルース、その自己分裂性に先験的に内在されていたものなら、ブルースの「淫猥」に自己回帰する必然性もある。ロックという媒質のスピード低下を乗り切るのは、そういう意味でのルーツ化ではなかったか。

ここで見事な同調を、予感的なレベルもふくめ見せたのがリトル・フィートだった。ただしストーンズとフィートはリズム形式がちがう。キース・リチャードが芯になって速度増加を均質性によって歯止めする、ストーンズの前進いがいに錯聴性のないグルーヴにたいし、リズム隊のシンコペーションによってアタックの後ろに音の残影を散らしてゆくフィートのファンキーさが一瞬、ストーンズを凌駕した。それでストーンズの相対的な重要性がここでも低下したという個人的な感触がある。むろんそれは嫌いになったということではない。逆にファンキーを旗印にしたフィートはリズムの複雑な分散によって、ローウェル・ジョージを中心にしていたバンドそのものの中心性を崩壊させる悲劇にいたった。

強調すべきは、ロック・ジャンルを先行的にプログラミングしたのは、ビートルズとディランの二者ではなく、そこにストーンズを加えた三者だったのではないか、ということだ。あるいはジミ・ヘンドリックスを加えた四者だったのではないか(おもわずドアーズもこれに加えたくなるが)。二者なら影響/被影響を基体に据え、弁証法で展開が解けるが(それは線分から面積への設問になる)、三者以上なら錯綜、同時多発による複雑性の進展範囲(容積とねじれの問題)を吟味せざるをえなくなる。つまり瞬間・瞬間に勃発してくるものを、自分自身を「聴く」ように相互に聴く、ロックという媒質そのものの「主体性」を仮構せざるをえなくなり、それで通常、媒質にあてがわれるものとは異なったもの――たとえば動物性や人間性、有頭性や身体秩序(オルガン)といったものまで想定せざるをえなくなるのだ。

そのようにロック全体が速度を展開するひとつの「身体」だったとして、四分五裂しようとするその四肢を、血の噴出に導かれるべき血脈を、何が統一性のままにとどめていたのだろうか。ひとつは反体制的な思考、ひとつはドラッグ蔓延による意味的な平準性だろう。これらをさらにひとつに融合するとこうなる――「身体の分裂によって」身体を統一する逆説、その力動が60年代後半のロックのもった唯一の栄光だったのだ。むろんそれは力動だから永久機関に関われぬかぎり力が低下する。

ではそのロックの力動は何によってもたらされたのか。コミュニケーション論にもとづけば原理的には解答が容易だ。繰り返しになるが、「自身を聴くように相互を聴く聴覚」、しかも「速度の限界を超えた聴覚」によってであるにすぎない。これがジャンルの統一性を形成し、最終的には収斂を導く全体有頭性までを導いた。これは歴史上奇蹟的なことだ。たとえば「現代詩」では「自身を聴くように相互を聴く聴覚」「速度の限界を超えた聴覚」、その結果としての「統覚のジャンル内収斂」など、ディスコミュニケーションによって望むべくもない。ほとんどだれも他人の音を本気で聴いていないようにさえ見えるのだ。
 
 

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2012年10月20日 日記 トラックバック(1) コメント(0)












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2012年10月22日