齋藤恵美子・集光点
札幌在なので詩作者から一斉に詩集等が恵投されれば、おおむね関東在のかたがたより一日遅れでポストにとどく。きょうは齋藤恵美子さんの新詩集『集光点』を恵まれた。「詩手帖」年鑑号に年間詩集回顧をもとめられているので、卑怯だが出し惜しみをして、走り読みした最初の感想のみ簡単にしるしておく。
全体構成をいうと、世界の「海岸」(それはいつも海岸なのだ)を移動し、そこに佇む詩篇が前半、連続する。詩集空間に恣意的なほど多様な空間がもちこまれ、同語反復的になるが、世界性という空間の穴がそこに穿たれるのだが、穴だからそれはひらいている。いや、それはもはやあらゆる差異をのんでゆく「海岸線」という「ひとつの道」というべきかもしれない。結局ひらいたものがむすびあって、詩集タイトルにある「集光点」が形成されてゆく眩暈が生じる。それらすべての場所は実地体験なのだろうか。
やがて海岸の地勢縛りがとかれ、作者の日常閉域が出現しはじめると、それまで水平軸に延長されていた空間が、垂直軸をさまざま織りなす時間にとってかわられ(微細さがそこで増大する)、たとえ場所が日本であっても、べつの属性の世界性がやはり分泌されてくる。その単純な証左として、詩集全体にカタカナ語が頻出しているのだ。
齋藤さんの詩は難解だろうか。ひとついえるのは、読点や一字アキによって、さらには改行詩のばあいには一行音数の不揃いや改行瞬間の異質によって、リズムの平滑さが峻拒され、速読をみずから阻むかたむきがあって、リズム的に難解な印象をうけるということだろう。再読時のために初回はあえて走り読みしたが(構造的な読みは、よってしていない)、リズムの隙間をうめる、やわらかい音の粘性がない点が、女性の書く詩として異質といえるかもしれない。
齋藤さんの詩集については、ぼくは『ラジオと背中』を読んでいるが、こういう感覚が齋藤さんに以前からあったのかは確かめてみないといけない。久谷雉くんが書いていたように、従前とは「ちがう」――未読だが、もしかすると詩集ごとにちがう――のではないだろうか。端倪すべからざる詩作者だ。
ハッとさせるフレーズがたとえば風景を語るなかに予測不能に織り込まれるタイミングも、魅惑的だ。ことばづかいの難解さではない、これもまたリズムの難解さなのだ。どのように世界がみられているのだろうか。
ぼくはじつは詩集を直観的に値踏みするとき、(これまで秘密だったが)冒頭第一篇の終わりに着目することが多い。そこが良ければ全体も良い、という経験則があるのだ。正解率のたかい判断基準。齋藤さんの冒頭第一篇「居留地」の最終聯もむろん素晴らしい。書きとめておく――。
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名前も ひとつの郷愁だから 知らない抑揚を舌にのせ
沖待ちの船を数えて
信号塔から 岸へ戻り
遠い夏の 艀で積み荷を 陸揚げする人足たちの
姿と汗を思いながら 感じながら
風に立つと
荷さばき場の一角から まぼろしのような声が上がり
未来が 過去と
相殺されて
現在だけの路上になる