齋藤恵美子・集光点2+電気
昨日、齋藤恵美子さんの詩集、『集光点』を早読みして短文を書いたのだが、おもいっきり誤読した(と今朝、落ち着いて詩集を再読してわかった)。詩集開始をかざる数々の詩篇に、ブラジルの港などの題材があるとおもったのだが、すべて横浜港が舞台だった。詩集前半は世界の海岸線を線形化する、としたぼくの読みは浅はかだった。
誤読には理由もある。場所の場所性に迷彩がほどこされ、渡来人がえがかれ、その文化圏のことばがカタカナ表記されているからだ。それらが地にたいしての図のように噴出している。つまりもともと日本/海外の弁別を曖昧する書法がとられていた、ということでもある。
このことは二元性をもつ。海をわたってきた渡来者のかもすディアスボラの非運と不屈は、それをしるす詩作者の「国内にいながらのディアスボラ」の自己意識を鏡のようにも映すのだ。こうして彼我の対比が錯綜し、そこでこそじつは「集光」が起こる。詩集タイトルとなった「集光点」は、詩篇「D突堤」の一箇所の語彙として登場する。
眠たい脚を、ようやく、居間まで引き摺って、立たせた途端
鏡の中の、青い
面積が崩れ落ち
わたくしという立場だけが、ぼんやりと残っている
集光点
外気を送り、光源のように、指を
曖昧な風に立て
それにしても、女性性とは次元の異なる力づよい書法が連続し、リズムが切断をしるすなかで、忘れられないフレーズの紛れ込むタイミングが、昨日書いたように魅惑的だ。そんなフレーズのひとつに、詩篇「屋台料理」中の《時間のなかに在る者が どうして亡き者と出会えよう》もあった。「時間と死」「空間と死」について、本質的にどのようにひとが把握しなければならないのか、その解答がここにある。
そういえば倉田比羽子さんの『現代詩文庫・倉田比羽子詩集』中の「散文」には、亡き父親に宛てた「幻の手紙」という胸を打つ文章が収録されていて、そこで吉岡実のかつてのフレーズがリマインドされた。字下げを割愛して引用しておく。《(人間が死なずにすむ/空間はないのか)》。生死の絶対の差異がここでも詩的修辞へ昇華されていた。
それやこれやにインスパイアされてつくった詩篇も下に貼っておきます。
【電気】
阿部嘉昭
あぐらを自分にゆるすことで、自前だけの座をつくる。前後左右はないが、手をささげ空気を撫でれば、おんなのくびれが、なきままに帯電してくる。身ひとつ分の電気ということだ。もった記憶も臨終で消えるのだから、ひとりの死を死ぬことが、ひとにはできない。これもまた電気に似て。