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大江麻衣・にせもの ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

大江麻衣・にせもののページです。

大江麻衣・にせもの

 
 
(承前)

詩集を再読し、初読時と大幅に印象が異なったのが、高橋源一郎が肩入れして話題になった大江麻衣の『にせもの』。この詩集は紫陽社刊行だから、荒川洋治も彼女に肩入れしたことになる。

最初に接したときは、悪達者ゆえの、おもたい澱がのこるなあ、という否定的な感慨だった。ところが読み直すともう免疫ができていて、発想の新しさ、面白さのひとつひとつに驚きつづけることになった。構文と構文の隙間に脱論理性があり、それが発語の勢いで踏破されてゆく、という分析は変わらないが、問題はその隙間に曰くいいがたい、論理性への接近が感じられる、ということだ。真実が「語りえない」から、そこが「語りえないまま」哲学的にねじれている、と換言してもいい。そういう精神性が保証されたうえで、詩篇ひとつひとつが奇抜な発想、奇抜な出だしで開始され、これまたそれぞれが奇抜に終わる。

荒川洋治がサポートしたからいうわけではないが、ねじれには荒川的なものもあって、女性による創作なのは明らかなのに、「同時に」これが女性によって書かれたのか、という驚きもさらに生じる。そのうち最も非・女性的なものとは、投げ捨てみたいな潔さが、ニヒリズムとは無関連に前面化される点だろう。癖の質が良い。いずれにせよ、修辞、(性的)アイデンティティなど、それぞれには驚異が仕掛けられている。だからというべきか、修辞についての修辞詩、といったメタ詩も多い。今年、最も「前衛的な」詩集は望月遊馬の『焼け跡』だとおもっていたのだが、大江麻衣はちがう角度からじつはそこに迫っている。

う~ん、これは初読で読み誤ったなあ。今朝、学校に忘れ物を取りにゆく行きの市電で読んだのだが、詩篇単位で入れた付箋の数は最も多いかもしれない。ちなみに入れたのは、「うつし絵」「あたらしい恋」「追いつめたい」「泥のなかのひと」「勘違いの畑」「いけない」「大入道の首」「鳴門」。ただし「泥のなかのひと」などは「不全」や「言い足りなさ」や「ズレ」の戦略から離れ、単純な十全さが少ない字数のなかにしるされている。
 
 

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2012年10月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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