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詩と記憶ほか ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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詩と記憶ほか

 
 
【詩と記憶ほか】


ぼくは記憶力がわるい。蓮実重彦はその細部まで憶えきっていることが自分の幸福と、ある映画について書いたが、ならば「失念は次善のしあわせ」だろう(そんな詩句がこんど利用開始されるぼくのオンデマンド詩集にもある)。

このところ年間回顧記事をもとめられることが多いので、もう絶対に再読しないと決めた詩集以外は、年単位で眼にとまりやすい場所へ平積みにしておく。必要以外には付箋を入れず、記事執筆時期の再読、再々読のときようやく付箋を入れる(付箋を入れると以後の読みが確定してしまうのでそうするのだ)。おどろくのは、つい数か月前に読んだものでさえ、素晴らしい詩集は、おぼろげな記憶との合致、という印象が多少あっても初読時とおなじ興奮をあたえてくれる点だ。このとき自分の記憶力のわるさを、逆説的だが天恵とかんじる。

むろんことばの組成が尋常ではなく、韻律による器への盛りこみもないから、(自由)詩は憶えにくい。とうぜん短詩形よりも分量も多い。じつは静止している絵や写真がイメージに固定しやすい反面、生動しているものすべてが再結像させにくいのと事態は似ている。ましてや文法破壊のある詩はさらに不測性がつよく、記憶を内側から攪乱してゆく。

再見するたびごとにうごめきだすフレーズ、詩篇、詩集こそが、「生きている」といえ、たぶん詩読の悦びとは、こうしたことばの生に接することにつきる(現在、ぼくのオンデマンド詩集の表紙につきデザイナーとやりとりをしているのだが、文字だけの表紙でも、字組にそんな生動がありえないかとおもっている)。

詩篇を記憶しきることは容易ではないが可能だろう。以下の手順による。フレーズと構成に自分が惹かれる感覚を、まず記憶する。つぎにその表面上のすべてを、漢字・ひらがな、句読点、改行形態などまでふくめ、「図像的に」記憶する。そのつぎにその詩篇を暗誦し感銘を増幅できる自分を「音声的に」確認する(歌を憶えて唄うのにちかい)。この三段階だ。しかも自作を憶えるだけの再帰性なら生産性がない(朗読会で、テキストなしに自作詩を暗誦されても律儀とおもうだけ)。他人の詩を憶えることこそがひつようだ。

話をもどすと、ことばの生は、その詩作者の身体、それがどの場所にあったか、それがどんな時間をつむいだかと、「喩的」「抽象的」もしくは「断裂的」に――まとめていうと換喩的にむすばれている。どんなに実験精神、媒体更新性が旺盛でも、生からはなれた発語など、すぐ見抜かれる。

佐藤雄一は倉田比羽子の(とくに『世界の優しい無関心』以後の)詩作の特性を、読むそばから直前が忘却されてゆく抽象性が、身体性とも直結している点だと(約言すれば)つづった。「羊皮紙」性ということばをもちいてもいいかもしれない。詩の基底材そのものが書き換えの感触で奥行から加算されてくる。現在の徹底的な現在化(過去形をもちいたら駄目、とかそういう問題ではない――眼にとめた一語がフレーズのなかで生きなおすように現れてくることが重要だ)。つまり詩性の規定は、喩や音韻や身体性などいろいろに要因化できるが、基底そのものへの作動、それによる自体のふるえ、ということでもあるだろう。

興味から脱落する詩集は、その意味では再読のための手を伸ばしにくい詩集という以上に、ことばの基底材が硬直するだけと感じられるものだ。どういうか、生硬な造語をつかうなら、「世界揺動性」がない。ゆれないから、想起や哲学的物象把握にまで関与をもたらさない。そういう不幸な詩集は以下のタイプに大別される。1)退屈、驚愕付与性なし。2)自己パターン化による逼塞の不幸がある。3)単純に厳めしく、恫喝的。これにかかわって共約的な断言もつむぎだせる。「ゆれるには、同定不能な隙間がいる」。これは物理学的見解ではないだろうか。

今年の良い詩集は、テーマのもとに一括できるものと、とうぜんながらその範疇に入れられないものがある。十月の刊行ラッシュ、まだ詩集が手許に舞い込むだろうが、「例外」をつないでくれる「中間的な」詩集こそを待ち望んでいる。これは自分の原稿の統一性のためでない。そのような詩集の存在こそが、詩の全体をひとつのつながりにまで有機化するとおもうからだ。「孤高の詩集」なんて滑稽でもある。
 
 

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2012年10月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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