大橋政人・26個の風船 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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大橋政人・26個の風船

 
 
今年刊行されていて、読めずに気になっていた大橋政人さんの詩集『26個の風船』(榛名まほろば出版、2012年9月刊)をアマゾンで取り寄せた。おもったとおり、柿沼徹さんの『もんしろちょうの道順』に匹敵する「哲学」詩集だった。これまた今年の収穫のうち最大級といえる。

哲学詩とはなにか。まど・みちおの詩篇「りんご」を知るひとは何となくイメージできるだろう。世界の「本質」(事物/空間/時間など)が簡潔なことばでつかまれ、同時にそれが詩的修辞として豊穣な含有をしるしている、というものだ。考察を哲学論文で語ると多大な展開を必要とするはずなのに、この世のことばの法則にしたがって、簡明な詩の範囲に清潔に寸止めされているものといっていい。多くのひとはヴィトゲンシュタインの「かたりえぬもの」について意識していて、それで寸止めが生じているはずだが、「かたりえぬもの」と「詩」の関係は相補的というよりむしろ、相即的というか一如的なのだった(入不二くん、詩を書かないかなあ)。

ここでもまた出し惜しみをして具体的な引用をしないが、大橋政人『26個の風船』の構成は、「こちらに向かってくるものの尖端性はなにか」ということを実体験から考察した数篇と、「からだの各部位はそのまま自明的にその部位だろうか」と本質的な疑念を呈した数篇、その織り合わせからなる前半部から開始される。詩集ほぼ中央に、小学生でも読めるような語彙と展開で、しかもカタカナで書かれた、直截的な哲学詩があり、あとは動物の存在本質をその動物の本質をつうじてだけつかまえる最後尾あたりの「猫」詩数篇が、冒頭の見事な「ナマズ」詩とひびきあっている。構成的にも素晴らしく、いままで大橋さんの詩を詩集単位で接してこなかった自身の不明を恥じたのだった。ほかもなんとか手に入れなければ。

まど・みちおの「りんご」では「存在」と「場所」の合一が起きて、そこで唯一性や偶有性、さらには排中律についての思考が惹起される。いずれにせよ、「りんご」は彼の眼前に「見られている」。いっぽう哲学者の考察では、たとえば椅子や石などの例示が多いが、それらには体験的実在性よりも論理への導入項といった抽象性がたかまる。そこが哲学詩と哲学のちがいかもしれない。

むろん実際に「実在」していることが、たぶん詩的修辞を、展開体系の手前で寸止めさせる要因になる。なぜなら物や場や時は、いつもそれじたい「慎ましく」在ったりながれたりしていて、思考主体もそのなかに入るしかなく、哲学者のような思考の雄弁性を発揮できる「外部」には立とうとしないからだ。だからこそ、すぐれた哲学詩の詩作者は、「沈黙」の必然を説いたヴィトゲンシュタインの系譜へと参列してしまうのではないか。

ということで、哲学的考察が事物をつうじてひらくのが、まずは「場所」ということになる。その場所は詩作者の個人性を帯びていればいるほど、普遍となる。場所と哲学が完全にむすびつき遺漏がないのが、大橋さんや柿沼さんで、そこから今度は「場所詩」として川田絢音さん、松岡政則さん、齋藤恵美子さん、白井明大さん、清水あすかさんの詩業が展け、そこに想像性がさらに加わって、瀬崎祐さん、野村喜和夫さん、小川三郎さん、金子鉄夫さん、中村梨々さんの詩業が合流する、という大きな見取りが成立するのではないか。

もうひとつ、哲学オルタナティヴというべき傍流もあって、田中宏輔さん、高階杞一さんはここに入るだろう。むろん哲学はことばの自在性にメタ的な疑義をくわえる本質的思考でもあり、ここでは望月遊馬さん、白鳥央堂さん、大江麻衣さん、(そしてここにも金子鉄夫さん)のすばらしい詩業が振り返られなければならない。まあ、いまおもっている年間回顧の大枠はそんな感じかな。

 

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2012年10月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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