降雪と二行聯詩 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

降雪と二行聯詩のページです。

降雪と二行聯詩

 
 
「――を――に書いたので、よろしかったら読んでください」といった告知はとうぜんSNSでも有効だが、「これから――を書きたい」とする宣言は、実際は恥しい自己励起の産物で、ぼくとしてはSNSに書くことを禁欲している。また、「いついつまでに、――と――を書かなきゃならない」というのも、多忙自慢めいて、これも自分の領域ではない。基本的には、つくった作品の提示でなければ、「――について――とかんがえた」と書くだけが、ぼくにとっての本筋だ。もともと、執筆計画を披露する有名性=価値が、自分にあるのかとも疑っている。

――とはいえ、詩作の今後のことについて書きたくなった(笑)。

最近つくってきた短篇散文詩(べつにツイッター詩を意識したわけではないが、そういうかたちに自然なった)はどうもこのあいだ発表したぶんでフィニッシュをむかえたようだ。大団円、の感触がある。第一次の自己編集をほどこした現時点で、全162篇。単純に発表順にならべた未刊詩集がいまドキュメントにファイルされてある。

ぼくの詩には季節が反映されることが多いので、発表順につづけて読むと季節推移の連続性がかんじられる。ひとり連詩の印象をあたえるかもしれない。せっかく北海道に移住したのだから、雪虫、初雪、根雪の季節まですすんでゆきたかったのだが、みじかいとはいえ、散文形創作に疲弊してしまった自覚があり、断念した。散文詩にはどうしても「音楽」が足りない。音楽性により詩を壊したいとねがうと、散文詩が呼び込んでしまう「論脈」が邪魔になるのだ。それで「改行形にもどりたい」という、脱出願望が起こることになる。

ぼくはこのところ、形式を決めて連作してゆく詩作方法をとっている。ただし短篇散文詩のまえに連作していた十行詩にはもどりたくない。自己更新のためだ。むろん行数の多寡の問題でもない。たとえば八行詩を連作しても、あまりあたらしい収穫をえられないような気がする。それに石田瑞穂さんがあたらしい詩集で、きれいな古典美をつらぬいた八行詩篇で詩集全体を統一していて、臆したというか怯んでしまった。

あるいは短歌俳句を志そうとしても、プロパーなひとたちのような厳密さをそれらの詩型に発揮できず、そんな状態のまま門外漢の立場にあまえたくもない。端的にいえば、ぼくは短歌俳句が下手なのだ。すごい作者が現状にひしめいている。

もっと自分に負荷を課す詩形式はないか。ネット発表しか通常の場がないので、長篇詩は避けたいという要請を外さずかんがえてゆくと、以前、自他に提案した「二行聯詩」のことをおもいだす。行空白を挟みながら二行聯を連続させて、聯の進展のもつ、時空変化や余白形成や断絶などの機能を多彩に実験しながら、全体をつくりあげるものだ(数学的にかんがえれば、この二行聯詩に、聯間空白の出現頻度が最もたかくなる)。ぼくは聯間空白の方法につき、これまであまり追求してこなかったので、こういう形式の詩に「やりのこし感」があるのだ。創作間隔は、実現の困難も見越されるので、最小でも一週間に一篇程度か。あいだは映画評などを書いて埋めよう。

「二行聯詩」の全体をみじかくするには、二行聯が計五つ、したがって全体が十行、あいだに聯間空白が四行ある、といったていどのものを構想すればいいのではないか。このかたちはモダニズム詩のどこかにあったかもしれない。西欧に通例だった十四行詩よりも、このかたちのほうが和式の感慨を盛りこめる気がする。

これを雪の季節からはじめる。雪は視界を同一性で覆うようにみえて、雪の舞いに曲線性までふくむ不測をかかえ、どこか絶望的な「見上げ」「見透し」といった身体動作まで付帯させる。それらの瞬間を擦過してゆくと、実際は身体的な不連続性が書記空間に転移される。だから聯間空白の多い詩型が似合うのではないか、という予測だ。雪の季節と、二行聯詩は、そのようにして「相即」する。

ただし書きだすまえに、寒さと淋しさを「利用」して、自分のあたまのなかを一旦枯らす必要をかんじる。それで雪のふりだすまで詩は休筆する。といっても空白期間は一、二週間ていどかもしれない。

「相即」と書けば、「共鳴」「交響」も望まれる。この二行聯詩、ほかのだれかもつくろうとはしないか。おなじSNSのうえで相互に距離をたもったまま、異なる方法の二行聯詩が(多方角から)出現したとき、詩作フィールドに変貌が起こっている、とかんじられるのではないだろうか。

それでも「孤独」が必要だろう。なぜか文体の弛緩が共通項となってしまった、いまのツイッター連詩みたいにはならないように。
 
ツイッター連詩は媒体的な要請によって、目詰まりのした散文詩型が選択されている。前詩からの呼応がモチベーションの第一なのだろうが、なぜか短フレーズを句点でつなぎ、発想飛躍が連打される形式が蔓延している。したがって論脈をつくっては手ばなす苦しみなど、よほどの手練れでなければかんじられない。さらに、微視的にみたフレーズ単位に内向的な屈折もなければ、安直さにもたれかかった手癖だけが前面化されてしまう。そうした病態が相互に分有されているさまを、ネット時代の通弊とだけ片づけてはならないとおもう。

ツイッター連詩がそのような外見をもつのは、「量産」が目されていると参加者相互が予感しているからだろう。とはいえ「量産」が可能な詩形式とはもともと危険なはずだ。時間が経過すると、自ら承認しがたいものが多くなるのが通例だからだ。ところがツイッター連詩は相互(連続)性だから、相互責任にしばられて、書いたものがネット上にのこってしまう。自分のしるしたものだけ削除してくださいと、のちのちいえない。

ツイッター連詩におけるフレーズの連打力は、みずからの――相互の、表現界面が平面的とする擬制を、いわば原資にしている。みんな一緒、というわけだ。そうして平面が自明的にならぶ。前詩からの呼応は、「匂い付け」といったものよりも、友愛的な連続にむしろちかい。

ところがいま現代詩でおこっていることは、望月遊馬にしても大江麻衣にしても、フレーズ進行にほどこした「ズレ」が、ねじれの量感をともなって、詩平面を脱自明化する過激な事態のほうだ。平面だったはずの「元の基底材」から変成的に立ち上がってきた「これ」は、空間なのか時間なのか、ねじれの厚みがあるのか、うすさのズレがあるのかという問いが、それらにたいする再読を何度もうながしてゆく。

そこでは連打にともなう幸運な発想力など、もともと信じられていない。むしろ壊して再建した経緯にのこる傷跡だけが、書かれてあるフレーズと二重に読まれるものになっている。きびしさがちがう。

二行聯詩に話をもどすと、いま願うのは、聯の「すきま」がズレやねじれを作動させて、単純な時空進展が脱臼し、イメージの結像性を危機におとしいれながら、なおかつ望月遊馬や大江麻衣がみごとにそうしたように、難解さからはなれ、ことばそのものの物質性だけを浮かびあがらせることだ。けれどもぼくは彼らのように力づよくない。だからこそ「すきま」――聯間空白の力を借りて、ズレやねじれを、他力本願的に実現したいのだった。
 
 

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2012年10月31日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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