田村孟の小説 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

田村孟の小説のページです。

田村孟の小説

 
 
昨日の出講時、市電に乗ったときから、書評しなければならない大冊『田村孟全小説集』を読みはじめた。こんな重たい本を外出携行するなんてバカみたいだが、立て込んできて携行本を割り振りする余裕がなくなってきた。

まだ最初の一篇(40枚くらいか)を読んだだけだが、もうゾクゾクするほどおもしろい。中卒者が金の卵だったギリギリの時期、東北の寒村から築地市場の水産加工商店に就職した現在20歳の女性がヒロインで、たとえば「安保」を遠景に置くことで高野文子のマンガ「黄色い本」などとおなじ空気をつたえるのだが、東北弁、東北語彙を組み込み、地の文と会話を溶解させ、ときにながい構文で粘性、膠着性にとんだ「屈折」をつくり、その抵抗圧を踏み込んだ読者の胸元を掴みまわすその文章は、手練れの一語につきる。小説は「物語」「キャラクター」「文体」の三幅対が商業的に要請されているが、文体がこのように肉体化し、間接的に開示される物語までうねってゆくときの魅惑が素晴らしい。

脚本家や放送作家から小説家に転身した者は、とくにその転身初期、うねった文体になることが経験的に多いようにおもう(隆慶一郎は未読)。さきごろ亡くなった藤本義一、あるいは野坂昭如などは戯作派のアプローチを延長した。ところが青木八束の筆名で書かれた田村孟の小説は、描写の肌理のこまかさ(矛盾形容だが「鷲掴み」の迫力とそれは同時的に出来する)の真横に、なにか(人物の)「声」にかかわる独特の感受性があって、結局、音声的な地図が小説全体に二重化されているような感触がある。印象論的な言い方だが。たとえば葛西善蔵から織田作之助あたり、戦前から戦後すぐに繚乱と開花した小説群への参照が教養的にあるのだろうが、それでも田村孟の、脚本家としての経歴と併せると、田村孟の小説を、彼自身と単純には諒解しにくい。

脚本家の仕事というのは、基本的には構成的だ。ハコ書きは物語素を単位化し、それをシャッフルし、無駄を省き、主題系を強化し、もの語りを円滑化する。バラして、つなぎなおす、それが創造の基本だろう。「構成」を純化するためには余分な沈澱があってはならない。それで科白は簡潔化され、ト書は無色透明になる。そうした作業をしいられて、小説家に転身する際は反動が出、文体に粘性ができるのだとおもうが、田村孟の小説は想像される変化幅を超えていて、たとえば同時代なら中上健次などに比肩できるものとなっている。すくなくとも佐藤泰志などよりも文章が濃厚、体臭的で、しかも運動量が大きい。

田村孟さんとはキネ旬時代に一回、原稿依頼で電話をし、気持良い長話をさせてもらったことがあるが、表面は温厚だ。ところが映画人としてのみの経歴を冷静にかんがえると、抜群の切れ味のエッセイを書いた石堂淑朗、TV分野にまたがって八面六臂の活躍をした佐々木守、つまりおなじ「大島組」の脚本家たちと較べるとずいぶん不吉だ。田村孟の唯一の監督作、『悪人志願』はもう観てから数十年経つので印象が曖昧になっているが、古典的な対立構図をつくっても、力点の置き方が不整理で、映画表現のもつべき描写効率性に達していない、何か弱く不鮮明な作品だった憶えがある。逆に大島渚は映画表現にあるはずの、そういう難関をいつもあっさりと突破し、映画の力のオルタナティヴを体現しつづける才能だった。だから田村孟は脚本家として大島の磁力圏に「吸収」されてしまうのだが、大江健三郎の『飼育』を大島のために脚色した田村は、たぶん未整理になりがちな体質を、対立図式の明確化につなげるよう大島から訓導を受けたはずだ。だがまだ大島のサディスティックな訓導はつづく。つまり、「構成」を脱構成化して混乱をつくれ、と。それで『無理心中 日本の夏』を田村は満身創痍で書いた。

さすがに田村にたいする自らの不思議な強圧を解いたのだろう、新聞記事から大島が田村に自由に発想させた『少年』は、田村自身の『悪人志願』をリベンジするかたちで強調点、対立を見事に古典的な均整=構成で織り込んだ、田村脚本の大傑作になった。

『少年』の達成は長谷川和彦『青春の殺人者』にも飛び火するが、ではその後、80年代以降の脚本家=田村孟の活動はどうだったかというと、あまりにも貧弱だ。「呪われた映画監督=脚本家」の大和屋竺(彼にも小説を書いてほしかった)よりも映画にしるした足跡がすくない。ようやく脚本家としてクレジットされている映画も、すべて出来がわるかった。これは何か。たぶん田村は大島に反発しながらも、その反発によって奮起し、方向をあたえられた脚本家だったのだ。その大島と田村が共働を解除したとき、田村はたぶん自己定位を悲劇的に喪った。そうして田村の低迷が以後、ずっとつづいたのではないか。

自分の資質への思い迷い。これが感知されるから田村孟は不吉で非運だったといえる。そのガス抜きとして書かれた小説は、だからガス抜きにとどまらず、田村孟を「もういちど」「つくりあげる」何かだった。そういう「鬼気」があって、それで「泣ける」。青山真治の軽薄なオビ文に反して、田村孟の小説は田村孟の脚本にどこも似ていない。まずは「構成」を溶解させる凄味で成り立ち、その底に「工(たく)まない構成」を組み入れる多重構造をもつからだ(『無理心中 日本の夏』の構成はパーツ分離性という点でもっと明視的だといえる)。『少年』の「無表情」については大島がつくった。田村孟の脚本が構想していたのはむしろ「表情」ではなかったか。

まだ冒頭一篇しか読了していないので、その後の収録作に青山真治のいう「無表情」があるのかもわからないが(彼の栞文もまだ読んでいない)、そうだとしてもそれは「表情」をつくろうとして「表情」を大島に奪われ、80年代は凡庸な監督によって要らない「表情」を悲劇的に上乗せされていった田村の脚本「だけ」にはやはり似ていないのではないか――そんな予感がある。読み進めよう。
 
 

スポンサーサイト

2012年11月01日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

大島渚の映画は脚本を誰が書いたか、あるいは共同脚本を誰が領導したかで、「石堂的」「田村的」「佐々木的」の区別があるようにおもう。『太陽の墓場』『日本の夜と霧』は石堂的で力づよい。「田村孟的」がはじまるのが『飼育』で、そこでは大きくいうと石堂的な二元論対立が多元論的対立になって、これが『白昼の通り魔』へとつづく。「佐々木的」なものとは若い瞬間発想で、これが「68年前後」の大島作品につづき、たぶん田村さんはアンカーとして構成者の位置にかわる(大島さんの役割は煽動者)。そのまえの『無理心中 日本の夏』で発想者--構成者として破綻したから、発想者の役割を解除されたということ。それで田村さんにとっての捲土重来の脚本が『少年』になる。で、大島さん自身の脚本になる『愛の亡霊』が「田村的」というのは、『飼育』と雰囲気が似ていながら、さらに『少年』のように無駄が処理されて、展開が「古典的に」引き締まっているからだ。68年ごろの他の作品のように多元性のなかから「質問」が迫ってくる映画群に大島さん自身が倦んで、澄んだ映画を指向したとき、『少年』を参照例としたのではないか。いま、青山真治の栞文をチラ見したが、このあたりの機微がまるでわかっていなかった。もうひとつ、おもいだすことがある。大島さんが「田村のだしてくる脚本は未整理で、いつも長い」とどこかで語っていたこと。このあたりに、田村さんが小説を書くようになった理由があるかもしれない

2012年11月01日 阿部嘉昭 URL 編集












管理者にだけ公開する