学校を舞台にする映画
三人の教師でおこなう映画論リレー講義(文学部生対象)、そのぼくの担当分五回が来週木曜からはじまる。ぼくが設定したテーマは、「学校を舞台にする映画」。このところの『鈴木先生』『贖罪・第二話』『高校入試』といったTVドラマ分野における達成、そして映画での『桐島、部活やめるってよ』の目覚ましさ(ここには『告白』は入らない)を念頭においてのテーマで、いまその準備のため、ひさしぶりに相米慎二の『台風クラブ』を観なおしていたところだ。とうぜん揺さぶられるような感動へとみちびかれた。
今期は院生用にゼミ形式の映画論授業もやっていて、一期内に別テーマで映画論授業を並行するのは結構、精神的・肉体的な負担がかかる。たまたま院生用はいまフリッツ・ラングの『飾窓の女』解析にさしかかっていて、そこで強調しているのが、蓮実重彦の立論に重点を置いた、ハリウッド映画の「説話論的経済性」だ。
すべてのシーン・会話に無駄がなく、もの語りが流麗に進展しつつ、観客の注意と不安をつかんでゆく。しかも因果論でいうと、原因→結果がシーン進展のこまかい単位で直叙されるのではなく、あいだあいだに別の原因→結果を繰りこまれることでいっけん迂回的に進展する。そうした配慮がないと映画は人為的で目詰まりな逼塞を抱えこんでしまうからだ。これを別の見地からいえば、「伏線」がもの語りの進展に沿って間歇的に配置されながら、伏線相互の「距離」を映画自体が自覚している、ということになる。
ここから「部分」への意識、とりわけ『飾窓の女』のようなノワール映画でいうなら「部分」への恐怖が出てくる。部分から全体が割り出されてゆく映画的叙述は換喩(メトニミー)にかかわる考察を呼びこむ。メトニミーは創造上の基本でいえば、ある一節によってその「隣接領域」が発想的に繰り出されるということだ。ところが、『飾窓の女』では、主役男女の身体の盲目性が付帯テーマになったとしても、部分(シーン/ショット)同士が時間軸上で、明視的に互いを見やっているという擬制が働いていて、そうした映画の「先行決定性」にこそ観客がまきこまれる。
話を『台風クラブ』にもどそう。この映画はたぶん「すぐれた」「現在型」「学校映画」の嚆矢となった作品で(作品の主舞台は信州あたりの木造中学校校舎)、性的鬱屈を抱えた中学生たちが接近・上陸した台風のエネルギーを吸収してどんな逸脱を深夜の学校で体現するかがもの語りの焦点となっているとまずはいえる。
冒頭が夜の出入り禁止の学校プール。その粘ついたようにみえる水面を映しだすファーストショットの官能性は語り草となっている。そこに演劇部の女子たち、さらに大西結花、工藤夕貴があつまって、相互の弁別をあきらかにしないまま踊る展開となる。つまり成員の無名性を軸にした集団劇として開始され、それから先にプールにひそんでいたアキラが、彼女らにプールのコースロープをつかって「処刑」されるシーンがインサートショットのかたちで後続される(このときのロング画面が高橋洋『旧支配者のキャロル』のキャスター付イントレの全貌判明シーン同様、「映画機械」の露呈機能をもっている点に注意)。
成員の無名性を軸にしてはじまった中学生集団劇は、それが映画であるかぎり、成員の個別化と名前の付与をおこないながら、「もの語り」を進展させざるをえない。ところが『飾窓の女』であれば主役エドワード・G・ロビンソンにまずは観客の視線が注がれ、シーン進展にしたがってその周囲の配役/世界が関係形成的、発展的にひろがって、人物群の布置把握に齟齬を生じない(説話論的経済性という概念が呼び出されるゆえんだ)。
ところが『飾窓の女』にあった部分の相互組成が『台風クラブ』では脱臼している。先ほどの言い方にしたがうなら、映画の「部分」が他のシーンなり何なりを見合っている際の原理は、明視性ではなく盲目性なのだ。だからメトニミー的単位の加算も、観客の理知を超えた上位領域には形成されず、ただ観客の「眼前」に、視覚性というより触覚性の感触をともないながら、「現在の現在化」として構築されてゆく。
言い方が難解になったが、伊藤昭裕の手持ち長回しをショット単位とした撮影は、生徒たちのうごきにしたがってこそ学校内空間を「ひらいてゆく」。そこにしか部分の加算=メトニミーが機能しない峻厳さに全体が貫かれている。「もの語り」は不測性にとみ、しかも意義というより量感的な力しかあたえられていない。人体と空間の提示のほうが「もの語り」より上位にあるのだ。ハリウッド的な説話論への叛意や脱臼が生々しく脈動している。
大略でいうなら、付帯的に描写されてゆく学校内空間は、冒頭のプール、校門からみた学校全景がしめされてのちは、教室(そこでもたんなる「内部」から「窓側」へとシーンを追って空間がひらかれてゆく)、廊下、踊り場をふくんだ階段、体育館、職員室、校長室、体育館の入口前の空間、という順序で「部分」進展してゆく。みな生徒個々のうごきにしたがって出現してくる空間であって、順序は事後的に跡づけられるにすぎない。
学校内空間を主軸にした映画ではたとえば廊下を舞台にしたショットが特権的な縦構図をつくることになるが、『台風クラブ』ではその最初の出現ショットの生々しさに息を呑むことにもなる。中学生たちの身体の生々しさと相即的に描かれることで、たえず「部分」が「全体」のなかに不測的にすがたをあらわす呼吸をともなっているためだ。
つづめていうと、『台風クラブ』にあるのは、『飾窓の女』の「おのれ自身を知っている」メトニミー構造ではなく、「おのれ自身を知らずに」ひらかれてゆくメトニミー、「部分出現」にかかわる神聖さ、驚愕だ。これが、部分が全体に回収されないのではないかという予感さえ導く。だから部分への絶対的な畏怖、が観客の感覚に浸透してゆく。ところがその畏怖は「なんでもないもの」からこそ出来するのだ。
相米映画にこういう属性のあるのは極論すれば『台風クラブ』と『ションベン・ライダー』だけかもしれない(『魚影の群れ』が微妙だが)。飽和的でない「ありもの」による空間が生動的に陸続してゆくこうした感触は、とくに後期相米映画では稀薄になるのだ。この稀薄さの露呈は、じつは『台風クラブ』内にもある。たとえば「家出」して憧れの原宿にいったのち、工藤夕貴は冴えない大学生・尾美としのりにピックアップされる。そのときの尾美のアパート暮らしの部屋は、日活ロマンポルノ的な全体自明性に浸食されてしまっている。おなじことはニヒリズムと諦念と自暴自棄と露悪を病んだ教師・三浦友和の居住空間にもいえる。「学校」だけが映画では特殊な力能を負わされるのだ。
むろん『台風クラブ』の「全体」も、「部分」の新規性進展によってのみ展開するわけではない。たとえばある「部分」は以前の「部分」と不測的に照応する。「三上くん」の親友で、とりわけ破滅的/攻撃的な性衝動をかかえる「ケン」には「扉」の主題がまつわる。彼は帰宅直後の扉の開閉と内部外部の往来を動作しながら「ただいま/おかえり」の発語を繰り返し、絶望的な焦燥をつたえるのだが、そのリズムが彼の執着する優等生・大西結花を、だれもいないとおもわれた台風の夜の校舎内の隅々に追って、やがては職員室に避難した彼女そのものにたいするように木の扉を左右の足交互で蹴破ってゆく「リズム」に転位する。
あるいは優等生の「三上くん」と工藤夕貴は近所に住み、一緒に登校する、学校のだれもがみとめるステディなカップルだが、このふたりのあいだには相互照応する「自慰」の主題系がある。土曜の朝、母親に起こされずに工藤は寝過ごして起床する。その顔には口紅で十字架がえがかれている(額を交点にして十字架の主木部分は鼻筋から唇中央を貫通している)。それが自らへの施しであったとするとこの口紅による十字架のしるしは自慰的なのだが、そのあと、「三上くん」の登校うながしをやりすごした工藤は、母親の寝床にもぐり実際に自慰をおこなう。
これが「三上くん」に転位する。作品、つまり台風下の日曜夜から月曜未明を終結させるために、「三上くん」は自己供犠的な死をえらぶ。教室内の机と教壇で彼は投身のためのいわば飛躍ボードを階段状、窓にむかってつくりあげるが、この組み立て作業そのものが自慰的なのだった。彼は眠りこけているクラスメートたちを起こし、「死は生に先行する」とマニフェストして投身自殺する。自殺が自慰の究極なのはいうまでもない。気をつけるべきなのは、工藤の「口紅の模様→寝床でする自慰」とおなじ「自慰的→自慰の実際」の構造が、「三上くん」の「組み立て→投身」にもみとめられる、ということだ。
こういう「転位」が最終的に映画全体に大きな枠組をつくりあげる。冒頭のプールの水面が、月曜朝、「アキラ」とともに登校してきた工藤に「金閣寺みたい」と感嘆させる、校庭全体のプール状態を、感動的に結実させるのだった。
『台風クラブ』評ではないので作品の委細についての考察は省略するが、この作品にあるのは、メトニミーと転位の盲目的な力の前面化だという点は銘記しよう。つまりメトニミーが説話論や観客への不安操作と密接にからまってゆく、部分組成間の明視性=先行決定性はここでは脱臼されている。むろんこのことが『台風クラブ』のアンチハリウッド的な価値の第一であって、これに付帯するように「東洋的身体」が作品内にすべて焦燥態として出現してくるのだ。ハリウッド映画なら「部分」が効率的に系列化・周縁化されてゆくところを、『台風クラブ』は「部分」に畏怖を感覚させつづける。
こういおう。『台風クラブ』では(もの語りの)「全体」は結局「とるにたらず」、しかも『飾窓の女』のような「隙のなさ」で溜息と身震いをあたえるものですらない。ただ部分が出演者の身体の移動にともなって連打されてゆくときの迫力・生々しさが、一種の盲目的な触感性をともなって観客の身体に蓄積されるのみだ。ここでは全体が、「瓦解化のかたちで」全体化されることでこそ瓦解をまぬかれるという逆説がひそかに生じている。とりわけ瓦解をふせぐ接着材となっているのが、作品にはりめぐらされていたと事後的にわかる「照応」だろう。
いまや問題は、ノワール映画のような悪のメタ性ではなく、生々しさそのものの盲目的な触感、生動性にある。ぼくはおもいだす。自分が中学生のときも、自分が仮定の中心にすぎないと自覚すればするほど、同級生たちが分子的衝突運動を繰り返す校内が、運動のたびに生々しく更新され、それを感覚する自分の身体に、一種、稀薄化の危機をまねいていたことを。だからぼくは同級たちのうごきをたぶん必死で「認識」しつづけ、それで自己身体を危うい「装置状」に代えていたのだ。
この感覚のよみがえりが、いわば現在的な「学校を舞台にする」映画の要件というか証拠物件ではないか。それはノスタルジーを形成しない。それはむしろ形成を破壊する更新によってすべてが攪乱されている、生々しいだけの運動体であって、詩の真の運動に似ているなにか、というべきだろう。
計五回の授業では豊田利晃『青い春』、ガス・ヴァン・サント『エレファント』も対象にする予定。さらに余裕があれば、エドワード・ヤン『クーリンジェ少年殺人事件』もあつかうかもしれない。