田村孟の小説2 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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田村孟の小説2

 
 
航思社刊『田村孟全小説』、全700頁中、200頁あまりをいま読みおえたところ。なかなか進まない。二段組の小さなQ数で印字されていて一頁あたりの文字量が異様に多い点もあるが、田村の小説文体が説明的・開示的に「順序」を展いてゆくものではなく、抵抗圧のたかいその空間は「たんに理解のためだけでも」精読をしいられるものであるためだ。中上健次よりも小説的な圧力がつよいのでは、とふと疑う。

読んでいるあいだ、ふと倦んで巻末の初出一覧をみると、田村の小説執筆活動の全容がわかる。小説を手がけたのは、「映画批評」における「細民小伝」の連作からで(このときの名義は田村孟)、これはたぶん松田政男さんあたりにそそのかされ、「洒落」の気持も手伝ってのことだったのではないか(栞文には松田さんの談話も収録されているので、それを読めばいずれ事情が判明するだろう)。そのあと、田村はたぶん「本気」になる。それで文芸誌への小説掲載がなされるようになる。『田村孟全小説』は執筆順の時系列構成になっていて、これまでずっと「細民小伝」シリーズを読んできて、いま「文學界」に掲載され、同誌の新人賞を受け、芥川賞の候補ともなった「蛇いちごの周囲」(つまりこれが田村初の文芸誌掲載小説で、同時に初めて「青木八束」の名義を使用したもの)を読み終えたのだった。

いろいろなことをかんがえる。助監督から監督になり、それが次第に脚本家へと経歴が特化していった田村孟や大和屋竺のような映画人は、小説を手掛けるとき、何を欲望したのだろうか(大和屋さんは手掛けなかったが、「ちかいもの」は書いた)。彼らは脚本家として映画の撮影現場へ表敬訪問などはおこなっただろうが、基本的に現場性から放逐されてゆく。それが体験の喪失だとおもえば、彼らは小説執筆で、小説というより、「映画そのものの映画性」を書こうとするのではないか。

田村孟の小説はそのシナリオに似ない、とこのあいだ書いた。けれども、それは映画そのものには似る。しかも奇形的に「大島渚の映画の一部」に特化して似る――これが傑作、「蛇いちごの周囲」を読んでの感想だ。

大きくみると、この中篇小説の構成は単純だ。理解しやすいように、人物相関図を最初に提示してしまおう。群馬の山村から東京の大学生となった神宮雄一郎は長谷川登和子と婚約する。ところが雄一郎に赤紙がきて彼は応召され、ひとりになった登和子は雄一郎の実家・神宮家(たいへんな山地主だ)に疎開がてらにやってくる。そこで暮らすうち、雄一郎戦死の報が舞い込み、後追い自殺をした(と伝えられる)。

東京空襲は熾烈さをまし、登和子の妹・津和子も神宮家に疎開、居候をする。そこで敗戦。やがて津和子は、登和子の嫁入り道具として神宮家に入った家財のいくつかを取り戻してリアカーで運ぼうとする。家財の一時の避難先にはある蔵を目論む。運搬の手伝いとして、中学生・八束(つまり執筆者とおなじ名前)を指名する。八束は神宮家の本家筋となる農地の大地主の嫡男だ。じつは小説はここからはじまる。つまり上に書いたことは、小説が進展するにしたがい、付帯的に判明してくる事柄だった。なお、群馬は田村孟の生地で、主人公に「八束」の名がもちいられていることから、小説は田村の自伝的要素を「偽装」する結構になっている。

大島映画のファンはこの小説を読むとたちまち奇妙な感慨にとらわれるだろう。大島作品のうち脚本を田村が領導したものがいくつかあるが、何か読んでいるイメージが田村主体の『白昼の通り魔』と二重写しになるのだ。武田泰淳の短篇を自由に翻案した『白昼の通り魔』については、『日本の夜と霧』と正反対の、カット数の多さがよく話題になる(大島自身も何回も口にしている)。川口小枝のからだの部分接写が一秒程度のながさでつながれ、幻惑を生じつつ結像定位が流産するとか、俳優の動作がこまかく割られて、あたかもそれが蛇腹状の分離性をともなって、割れるように展覧されるとかだ。「蛇いちごの周囲」は冒頭、八束の「見た目」で津和子の表情や動作が微分的に描写されてゆくのだが、そこにはあきらかに『白昼の通り魔』が実験的におこなったカッティングの痕跡がある。

同時に『白昼の通り魔』は、たぶん武田泰淳の原作(未読)からはなれて、「声」のあふれかえる映画だった。大島映画における過剰な音声化は、『日本の夜と霧』が話題になるが、『白昼の通り魔』あたりから過剰な音声の主体が女性(女優)に移行する。駆動力になっているのがとうぜん小山明子の存在で、論理性をともなう語りの進展がかえって女性性を漏洩してしまうエロチックな機微をつたえ、しかも大島はそこに、打破すべき民青的価値観までも罠のように付加する。そのタイプの「音声性」の嚆矢となった映画が『白昼の通り魔』で、そこでは川口小枝と小山明子がいわば二重の状態となって「音声の過剰化」へと作品を導いてゆく。木下恵介の「議論映画」『女の園』を観て松竹入社も射程に入れたという大島らしい。

けれども武田泰淳の原作を翻案して音声過剰にしたのは脚本の田村孟のはずだ。つまり小山/川口の語り/声の質を決めているのは、田村の、女の音声にたいする体質のはずだ。そのことが文章の地の文に人物の発声内容がふんだんにくりこまれた「蛇いちごの周囲」で、感動的に判明する。とりわけ津和子の口調が、『白昼の通り魔』の小山明子に「似ている」。津和子のルックスの描写は川口小枝とはちがうけれども、色の白さ、という印象がのこって、結局、小説内の津和子をイメージすると、川口小枝のような少女が、小山明子の声で喋り倒しているような感触が現れ、それに終始、支配されるようになる。これはその意味で、田村の小説ではなく、撮影現場から放逐された田村の「映画」なのだ。

「蛇いちごの周囲」は、津和子と八束が神宮家に辿りつくと、そこで家財返却をめぐって悶着がとうぜん生じる。神宮家の当主として迅一郎が登場する。この迅一郎はのちの中上小説の浜村龍造を髣髴させる造型だが、同時に口調が、大島作品での男性発声機械の一角をになった際の佐藤慶にも似ていて、つまり「蛇いちごの周囲」を読むことは佐藤慶と小山明子の「声」を聴くことに転位されてしまう。これは保坂和志の言い方を逆転するなら「小説の不自由」なのではないか。ましてや「蛇いちごの周囲」が執筆された73年当時、『白昼の通り魔』は作品的にではなく主題的に風化していただろう。『愛のコリーダ』に入ろうとしている大島渚がこの小説を読んだかどうかは詳らかにしないが、読んだとすればその反応は「苦笑」だったのではないか。

迅一郎という強烈なキャラクターが出てきて、作品は冒頭の「懐古調の甘美」から、議論映画に似た沸騰に転ずる。津和子による次々の暴露と推察、それにたいする迅一郎の笑殺と反論が交錯する。雄一郎の戦死の報ののち、迅一郎と登和子は山での仕事と称して二人きりになることが多かった。それはつまり登和子が迅一郎に相手を乗り換え、それを承知で迅一郎は登和子を慰み者にしたのではないか。その間柄になんらかの軋轢が生じ、登和子が自殺したのではないか。登和子はもともと多淫で、じつは雄一郎に執着していなかったから、雄一郎の死をうけて後追いするなどかんがえられない――これが津和子の推察だが、迅一郎にのしかかるように語られたそれらのことばは、迅一郎の老獪な捌きに返されるだけだ。

幾らかの「戦利品」を得て、津和子と八束が神宮家から引き上げ、小説は最後ちかくで、坂道の下りを利用した津和子と八束のリアカー滑走という「運動」を用意するとはいえ、ぼくが裏筋から小説内容を伝達せざるをえなかったように、作品の構成は脱構成的な倒錯を維持している。しかも物質性を前面に出しながら「描写」そのものは圧縮されて、一読では意味のつかみにくい箇所が頻出する。「構成」が最大任務である脚本家、その小説にしては構成が過激に破綻しているのだ。つまり田村孟が脱「脚本性」を志向したのは明らかだ。けれども同時に「構成力」の欠如はこの小説を映画とみた場合、やはり失敗を印象づける。脚本とも映画ともどっちつかずの小説。それは小説の自体性を生きた小説、といいきれるかどうか。何か暗澹としたものがのこる(芥川賞をとれなかった遠因はそれか)。

それでは「蛇いちごの周囲」が駄作かというと、前言したとおり、そうではない。描写の目盛の繊かさには、田村がなしえなかった映画監督の職能を小説に定着しようとする野心すらかんじさせる。もうひとつは大島渚の映画同様に、「音声化によって表現物のオルタナティヴ」が出現している点が過激なのだった。田村小説の特徴は誰でもすぐ気づく。会話内容が鉤括弧につつまれず、それで地の文との弁別が消され、すべてが地続きの音声支配性を体現してゆく。これも人物(役名)が明示され、科白内容が明示的に分節される脚本とは大きく異なる。そして田村孟の小説は、中上健次と匹敵するくらい、小説が分泌する音声が豊穣なのだ。ところがそれは映画の理想の「転写」なのではないか。あるいは中上の小説の正体すらそれだったのではないか。田村が中上をどう捉えていたか、だれかの証言がないものか。

この本の巻末の初出一覧をみると、70年に執筆を開始された田村の小説は77年にはもう終焉を迎える。たった七、八年間の所業だった。たぶん田村は、人生中、ほぼ自力でなしえなかった「映画」を小説に転写するというそのときの自分の方向替えにも恥辱をかんじ、持前の減退と脱力におちいっていったのだとおもう。そこが大和屋竺の絶望の質に似ている。だが、田村は脚本家として磨いた「構成」を駆使して、乾いた、しかも展開力をもって読者をドライヴさせてゆく小説なら書けたはずだった。それすらしなかった。彼はただ、文体で読者を膠着的な支配下に置くことを望んだ。おわかりだろうが、小説の文体は、映画では撮影(構図選択、カメラワーク、照明設計などがふくまれる)と編集を織りあわせたものに相当する。

それにしても――田村の小説を、田村自身が脚本化することはありえなかったのだろうか。「細民小伝」中「個室は月子」ならありえたかもしれない。東京で「女中」(いまや差別用語なので鉤括弧つき)をやる「月子」が、小学校時代、破戒僧に凌辱されたが、中学のときの担任に相手を禅譲したという回想ではじまるこの短篇は、のち意想外の展開を呼び込む。中学の担任を偲ぶ会合に出席した者のなかで、月子の「女中」をやっている邸から、月子の手引き(月子が主人夫婦と別荘に同行している不在の時期、月子の「女中」部屋の窓を施錠しないという方法)で同級生たちが泥棒を企ててゆく、という大筋で、ラストに多重状態で現れる皮肉などんでん返しも鮮やかで、これなら田村の「肉体的」文体を取っ払っても、説話的な映画になる。そういえばこの小説でも大島映画の人物たちの「声」が聴えるのだった。

しかし、はたと気づく。「女中」という着眼がもう70年代初頭には成立しなくなっている。「若者」の脱倫理的な自己中心性を、倫理的な回収をせずに描出してゆく構えもヌーヴェルヴァーグ的だ。また脚本化にあたり何の付加もしなければ、その映画は60分程度のシスター映画にしかならない。つまり「個室は月子」もその作品性ではなく、そこから摘出される「映画性」が古いのだ。

70年代からの田村はつまり、映画にたいして回顧的な視線しか自己組織できなかった。それが彼を小説の舞台から下ろさせ、のちにひいては、本業の脚本執筆まで減退化させた人生上の要因ではなかったか。痛ましい人生だったといえる。

ちなみに「細民小伝」の発表舞台となった「映画批評」はぼくの生年からいって同時代的に読めるものではなかった。ただし敬愛する平岡正明も編集同人になって、のち『映画への戦略』に収録された足立正生の映画論や、布川徹郎ドキュの採録シナリオさえ掲載されていたのだから、バックナンバー渉猟を往年企てなかったのが、いまの自分からは訝しい。ただし大学生当時のぼくは、「季刊フィルム」と「シネマ69」のバラ買いには精を出していた。山田宏一さんと蓮実さんへの接近がはじまっていて、その結果のことだ。それで「映画批評」の目次細部を点検しなかった(また70年代半ばまでは文芸誌をほぼ読まなかった)ぼくは、青木八束=田村さんの小説の存在をずっと知らずにきてしまったのだった。
 
 

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2012年11月04日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

書き忘れたが、田村孟と中上健次の表面的/直截的な邂逅は、長谷川和彦のデビュー作のために田村が中上の短篇を脚本化した『青春の殺人者』だ。まだ「岬」で大成するまえの中上だが、それでも中上的な沸騰奔流をしるす筆法にたぶん田村はめくらむおもいをしながら、それを職業的なハコ書きによって、冷静に「構成」化していったのだ。このとき中上の若さに、敵わないと脱帽したのではないか。それが田村孟の小説執筆を渋らせる原因ともなったのではないか。田村の小説執筆の終焉と、『青春の殺人者』の脚本執筆は時期的に交錯している。以後、田村は職業的なハコ書きをおこなうようになるが、たとえば泉鏡花のような沸騰奔流体をももてあますようにもなってゆく。あきらかに大島組時代にあった創意が減退していったと判断せざるをえない

2012年11月04日 阿部 嘉昭 URL 編集












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