個性と個別性 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

個性と個別性のページです。

個性と個別性

 
 
雪のふるまでは詩作しないと定めてから、たまに湧きおこるフレーズ単位の詩想を捨てるがままにしている。贅沢をしている、と自分ではおもう。そうした詩想とつきあえば、詩篇はいくらでも完成にみちびけるのだ。けれどもこれまでの身体とちがう器で詩作したいとおもうから、「癖」のようなものをいまは、すべて祓いたい。

大学で、映画、詩をはじめとした文学、音楽、マンガなど、ジャンルのことなったものを教えながら、たんに「それぞれ」で、「それぞれ」のジャンル法則をあきらかにしてゆくだけではどこか不健康が生ずる、とおもう。つまりあらゆる表現がそれ自体でみちるための内部法則にまで、思考の測量を伸ばし、すぐれた「表現」をすべて横断する共通項をみいださないと、個別的な分析能力が作動するだけで、創作全体への還元がないのではないかと危惧しているのだ。

表現内部にある細部をつなぎ、そのつなぎ目を馴化して分泌腺にかえ、表現されている「それ自体」を脱自化し、全体「構造」を、偶然と必然の相互作用によって動物化=有機化している、それ自体の内在法則を言語化・論理化できないかとかんがえる。「主題」の反復と変奏、隣接域を喚起してくるメトニミー、細部同士の内在的統一性をもたらす表現者自身の身体とその虚構化、対他性と対自性の混在(比率)、断裂を生み出すための跳躍台を部分に認定すること、時間の発明…… 

「着想」といわれるものは、いましるした程度には複雑な機能分化が配分されていて、たとえばその日、眼にした銀杏が陽光にかがやいて黄金の焔をあげていた、その感銘を表現に映さなければ、ていどでは、実は表現など成立しない。だから一次体験のみで目配せが起こっている多くのネット的やりとりは、表現の内在法則の埒外にあるもの、といっていいだろう。それは体感を一定の速さで打つだけだ。

先週アタマまで年間詩集回顧のため詩集を「浴びてきて」、個性にもたれかかった創作など自堕落で、じつは個別化していないという判定がもたげるばかりだった。そのひとが自分のしるしと信じている個性などたんに「癖」にすぎない。なるほど「癖」は身体にとってきもち良いものだろうが、その「癖」がたとえば伸長すべき着想を、いつも自分が慣れ親しんでいる手許へと折り曲げているだけだ。これが何度かくりかえされると、判定はそうした「癖」固有の限界を評点する狭さのみをしいられていって、あまり良い気分が出ない。

個別性とは、たぶん明滅的な速度で起こる反転運動、それすらこえて、個性を抹消し、普遍と闘争する際の「葛藤」のなかにだけ刻印されるのではないか。つまり抹消のあとに再出現が期待されるべきものにたいし、一時的な発現(すなわち「癖」)だけが個性だと信じられているような頽廃が蔓延している気がする。だから人格に適用される個性ということばと、世界性に適用される個別性ということばが峻別されるべきなのだ。たとえば「自己抹消運動」の痕跡がみえないものは個性であっても個別性ではない。そうしたありようではふかさにたいする測定不能が起こらないためだ。しかも自己抹消による平易化がおこって、「平易性が傷だらけ」といった魅惑的な逆転も感知できない。

真の「個別性」を称揚するために、「個性」だけはとりあえず否定しよう――モチベーションなく、とりとめもなく書き出した本稿のとりあえずの中間結論というか提起は、まあこんなところだろうか。ヘンな日記を書いたな。
 
 

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2012年11月07日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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