橋本文雄さんが亡くなった
11月2日、録音技師の橋本文雄さんが亡くなった。すでにご親族で密葬を済まされたという。享年84歳。お元気だったところたった一日で体調が急変してのご逝去ということで、じつにきれいなお亡くなりかただったらしい。橋本さんが育てた錚々たる録音技師たち(「橋本一家」と呼ばれる)、ずっと親しい協働をつづけた映画監督、俳優を差し置いて、ぼくなどが追悼文を書くのも面はゆいが、生前におつきあいさせていただいたよしみで、偉大な故人を以下に偲ばせていただく。
橋本さんにかんしてはまず誰もがその偉大な作品参加歴を指摘する。大映での録音助手時代は、溝口健二、伊藤大輔、森一生などの巨匠の現場を体験した。活動再開なった日活に移って一本に。初期の日活は文芸路線が主軸で、そこで川島雄三、今村昌平、中平康などの録音技師を歴任する一方で、台頭してきた「日活アクション」のながれに乗り、アクション映画の、強弱差のはげしいドラマチックな録音設計の礎をつくる。監督でいえば舛田利雄、蔵原惟繕、それにミュージカルまで手掛けた脱ジャンルの井上梅次もいる。
日活がロマンポルノに移ってからはオールアフレコという縛りのつよい録音体制のなかにあって、とくに神代辰巳映画の、もごもごいう俳優の科白と生活音、自然音が渾然一体となった「音宇宙」をつくりあげた。このころになると、橋本さんのビビッドではっきりとした録音設計はもう日活以外の製作者、監督にも響きわたり、ロマンポルノを離れてからの橋本さんは、鈴木清順、和田誠、澤井信一郎、森田芳光、阪本順治などの映画に引っ張りだことなる。大きくいえば、川島雄三から阪本順治まで、日本映画の半世紀の「音」を支えつづけた録音技師の第一人者ということになるだろう。
ぼくが橋本さんとじかに接したのが、やがて『ええ音やないか 橋本文雄・録音技師一代』(リトル・モア、96年刊)として結実することになる本のインタビュー現場だ。インタビュアーが上野昂志さん。その上野さんと孫家邦に編集として呼ばれ、インタビュー準備、補佐、構成などをおこなった。
橋本さんの第一印象はダンディ。長身痩躯で、折り目のついたズボンを颯爽と履き、磨かれた革靴の先、長い指先がなぜかつよく印象にのこっている。薄く色のついた眼鏡を着用なさるのが橋本さんの普段だったから怖いのかというと、回転の速い京都弁で抱腹絶倒のエピソードを次々と披露なさるし、場の調和を図る肌理細かさがいつもあって、いっぺんでその人格に惹かれた。しかも次回の話題は○○で、ということになると、記憶の掘り起し、映像確認など、その事前準備も綿密だった。
橋本さんは、こけしのように首が不思議な印象でうごく。からだに何か、こまかくリズムを切ってゆくような微分化が起こっていて、これはなんだ、と最初かんがえた。あとで橋本さんの現場がわかる。録音技師は、フレームの外側、しかしフレームの間近でブームを振る録音助手を撮影現場の前面に預ける以外は、「画」にかかわる撮・照・美スタッフの後陣に構える。科白など現場ででてくる音を録っているのだが、その手許はいちばん後ろにあるから現場ではあまり意識されない。ところが録音助手たちは、橋本さんの起こしている「魔法」に瞠目している。橋本さんの作業する現場の台にはミキサーがあって、なんと橋本さんは現場ですでにミキシングをしながら現場全体の音を録っているのだ。したがってヘッドホンをつけた橋本さんの計10本の指は、それぞれミキサーのコンソールにかかって、しかも指ぜんたいが「音楽のように」波打っている、という。
むろん現場ですでに加工して録ってしまってはあとで直しがきかない。というか現場で出てくる多様で不測性にとんだ音をすべて事前に「読んで」、そのそれぞれに有機的な連合をもたらしてゆくような瞬時瞬時の指先の「運動神経」など、余人にはもちようがないのだ。録音技師としての経験の長さ、脚本の読み込みのふかさ以外に、現場にたいする観察力が人並みをおおきく上回っているからこそできる離れ業だったといえる。そのときの指先のうごきこそ、橋本さんのからだを貫いている「微分性」だったのだ。
通常の録音技師なら、音は撮影現場ではなく編集スタジオでミキシング・綜合される。つまり映画は、「画」を撮る現場と、「画」に音をつけ、つないでゆくスタジオとに場が二分される。橋本さんはそれに異議申し立てをした。橋本さんが録音だと、撮った一定量ごとにスタッフ間でOKカットを確認してゆくラッシュ試写で、すでに大体の音がついている。そのことによって、とくに監督に、強調すべき音がなにか、音全体にどんなながれをもたせるべきかといった録音設計的な思考・着眼を促すことができると橋本さんはいう。現場が速く、しかも精密になる。そこで編集との連動も起こる。
いいかえると、スタッフの布陣でみれば、編集と音楽は撮影の現場にいない。ポストプロダクションのもうひとつのかなめである録音だけが撮影現場にいる。橋本さんは、編集と音楽に撮影現場の現場性をつたえる媒介として録音というポジションをかんがえていた。
その「ポストプロダクション」ということばをそういえば橋本さんは嫌っていたなあ。撮影現場が映画制作の「本体」で、音の完成、音楽入れ、編集の完成をする現場が制作の「後づけ」「従属」だという二分法がおかしい、というのだ。そっちだって撮影現場に負けない制作の「本体」だ、ということ。とりあえず橋本さん的なありかたによって、撮影現場とその後が有機的につながる。
橋本さんに接して気づくのは、橋本さんが関西弁でいう「イラチ」(せっかち)ではないかということ。ともかく頭の回転が速い。ふだんは温厚なのに、話に興がのってくると、エピソードと、録音にかかわる思考とが、絨毯爆撃のように連続してくるのも、なにか橋本さんの現場での運動神経を髣髴させた。このイラチの気質がなければ、撮影現場でミキシングなどするわけがない。
現場でミキシングの過半を完成させてしまうのだから、橋本さんの音の録りかたはすでに選択的になる。ドラマにしたがって強調すべき音、そうでない音、その弁別ができあがったうえで、それが、映画が最終的にかたどる時間的連続性のなかでどう配備され、反復され、展開されてゆくのかが、音を素材とした一種の全体音楽として構想される。「メインの音が大事です」と橋本さんは何度もいう。それも音楽でいうメインテーマのようなもの、つまり橋本さんの録音設計は、蓮実重彦の映画評論のように主題系(テマティスム)を自然に体現していた。
しかも橋本さんは選択的でありながら、同時に全体的でもあった。橋本さんは科白(声)、音、劇伴音楽の「全体」を映画の音として、いわば帯状につくりあげ、そのサウンドトラックをフィルムに結婚させる。それは橋本さん自身が排他性のない音楽好きだった点とも関連している。
そうはいっても橋本さんはとりわけジャズが好き、と告白していた。たとえば橋本さんと映画音楽家としての黛敏郎とは、橋本さんが溝口組の録音助手だったころからの付き合いだが、橋本さんの録音のとき、黛の洒脱なジャズスコアが多く生まれたのも偶然ではないだろう。日活アクションの初期から中期は音楽ジャンルとしてジャズが採択されることで画面進行に緊密さが実現された(フランスの初期ヌーヴェルヴァーグへの意識がある)。いまは音楽のミキシングが専門化されているが、当時の橋本さんはそうした音楽録りのときもミキシングをおこなった。その当時のエピソードをかたる橋本さんの嬉しそうな表情が印象にのこる。
日活映画はロマンポルノになると音楽の選択ジャンルがロック中心になる。ロックが載せられると画面の進展はゆるやかになるというのが橋本さんの意見だ。しかもロマンポルノでは音楽をオリジナルでつくる予算がない。そこで橋本さんのもとから、のちに選曲の大家となる小野寺修さんが育ってゆくことにもなる。
橋本さん、あるいは「橋本一家」の録音作品は、スタッフクレジットをみなくても、橋本さん的だとすぐに判断できる材料がある。音がアタックの面で生き生きとしているというのみではない。無音状態(それも橋本さんにとっては「音楽」なのだ)が挟まれることで音に有無の展開ができて、それで現れる音のもつ物質性、厚み、奥行き、豊かさが強調されるのだ。この無音へのこのみは橋本さんにもともとあったものだが、やはりオールアフレコをしいられたロマンポルノを経験してより強化されただろう。要る音は出す。要らない音は出さない。要る音のみが展開されるからこそ、録音は全体にわたって設計性をもちうる。橋本的録音の「選択型」の基本形がそうしてできあがる。
この橋本型録音は、現在は趨勢から離れたかもしれない。橋本さんのような、画と音が映画において役割等分だという平衡感覚が弱まり、画が中心というかんがえがふたたび主流になってきているのだ。それは同時録音技術が、ワイアレスマイクなどをつうじてより精密化・便宜化されたこととも関連している。低予算映画でもそうだ。音は、画が撮られるときに付帯する自然として録られる。したがってできあがった映画でも、音は画に寄り添う空気のような自然状態をつくりあげる。そこでは音は全体的だ。橋本さんの音のように選択的で、なおかつ意志的・音楽的なものではなくなっている。
橋本さんの音は、大きくいうと、日活ニューアクションまでは「つよさ」への段階を移行してきた。むろん(とりわけ若い世代の)観客が刺激をもとめるのに即応してきた結果だが、音がインフレ状態を呈してきたこの点には橋本さん自身が疑義をかんじてもきた。ますます派手になる銃撃音、打撃音、破滅音。頻度もましてゆく。録音設計は、落差を強調するために強弱をより大きな幅で執拗に繰り広げてゆく。そんなとき橋本さんの録音に運命的な僥倖が訪れる。ロマンポルノに移行してアクションに特化されない、より多元的な音にかかわる契機が訪れたのだった。
ロマンポルノは性愛描写が主軸に置かれれば、あとはオールOKという自由で創造的な撮影現場だった。ぼくは根が好色なので、橋本さんが女優の「喘ぎ」をアフレコでどう録ったかのエピソードが大好きだった。アフレコのスタジオで実際に俳優をからませて、スタンドマイクではなくブームを振って、衣擦れまでふくめた音を録ったこと。それでも喘ぎが性愛的に波打たなければ、コンソールを揺らすように動かして喘ぎの波を強化したこと。
ニューアクションからロマンポルノまでの橋本さんのこうした作業をしるすと、橋本さんが「音のつよさ」にのみ惹かれたとおもわれるかもしれない。だが内実はちがう。音の何ものも弁別しない橋本さんは、音の「つよさ」と同時に「よわさ」にも価値をあたえた。そうして神代映画、曽根中生作品などの、あの全体にわたる「染み入るような音」もできあがったのだった。
それでたとえば森田芳光『それから』での「つよい音」と「よわい音」の精密な葛藤模様もできあがってゆく。そこではむろん観客は「よわい音」に加担する。なぜなら森田監督が配したガラスなどフラジャイルな画面上の物質にこそ「よわい音」が連動するからだ。そういえば橋本さんは「録りにくい声」をもつ俳優にこそ惹かれると告白したことがあった。例にあげたひとりが、岸田今日子だった。『それから』での藤谷美和子、あるいはあの作品で「よわい声」を自分に組織した松田優作も、それなりに「録りにくい声」だったにちがいない。それでも弱音幅を基本にすればふたりの声は録りやすさのなかに定位されただろう。ぼくは「録りにくい声」の現在的筆頭は原田芳雄ではなかったかとおもう。『ええ音やないか』では原田さんの声にたいする橋本さんの意見が脱落してしまっていた。残念。
話をもどすと、唖然とするのが神代辰巳『嗚呼!おんなたち・猥歌』で、内田裕也以下主要人物全員が「音を鳴らす存在」として定位されていることだった。からだから音が鳴り出てくる存在の一種の侘しい昆虫性。その最終形として角ゆり子が陰毛を焼く音の侘しさ・陰気さが耳を打つ。なぜオールアフレコなのにあれだけ音が「多彩」だったのか。神代の資質と橋本さんの資質が幸福に合体したから、としかいえないだろう。
そういえば神代『赫い髪の女』で宮下順子の「喘ぎ」や憂歌団の音楽とともに耳にのこりつづけるのが、幾日も降りやまない雨の音だったはずだ。橋本さんは自然音のサンプルを数多くもっていて、あの雨音は手持ちのものを複合的に織り合わせてつくったものだという。観客は雨音「それ自体」を聴きながら、その「層」「隙間」をも無意識に聴いていたということになる。雨音もまた「多彩」だったのだ。
ロマンポルノのオールアフレコが活動の中心となって、寸暇のできることの多くなった橋本さんは、サンプルとしての音録りを、当時の助手たちを伴って、日本全国を行脚するようにおこなうことも多くなったようだ。岩に砕ける波濤音は唐桑半島で絶品のものが録れたとおっしゃっていたが、その他、風音、雑踏音(俗に「ガヤ」という)など、人もうらやむようなサンプルストックがあったという。橋本さんは昭和40年代くらいまでは多く見かけた、ナグラ携行の自然音の録音マニアのような側面もあったにちがいない。そこでも撮影現場での橋本さんの口癖「ええ音やないか!」が口をついて出ていたのではないだろうか。
『ええ音やないか 橋本文雄・録音技師一代』編集時の90年代後半すぐは、私事をしるせば、映画評論家としてのぼくの躍進時代で、蓮実さんから得たテマティスム構造批評の方法を磨きあげる時期だった。それで橋本さんが語る「録音設計」に、反復・展開などテマティスム同様の着眼があるのに驚き、興奮しつづける次第となった。「映画の音」にかかわる考察は、当時ならフランスのミシェル・シオン『映画にとって音とはなにか』を参照するのがアカデミズムの定番だったが(現在もか)、実地体験から生じた橋本さんのかんがえは完全にシオンの理論と連動していた。
シオンの本ではブレッソン『抵抗』の音を「フレーム内の現実音」「フレーム外の現実音」「それ以外としか分類できない超越的な音」に弁別し、展開のなかで音の閉塞が開示に向かう感動を分析したくだりがとりわけ印象にのこる。そのシオンの音理論が橋本録音に高度に適用できるのが鈴木清順の映画だろう。「つながらない」映像展開のなかで、橋本さんの、主題系に配列したい音が、強圧的に分断を余儀なくされてゆく。結果、橋本さんは現実音の出所を超越的な場所に配置しなおすなど、普段は時間軸上で自然に起こる「展開」を、虚実の幅の「展開」へと押し広げ、音の幻想をつくりあげたのだった。橋本さんの神代への構えが「親和」「同調」だったのにたいし、清順さんへの構えは基本的に「対抗」だったのではないかとおもう。
ずっと書かないできたが、映画録音の最大の基本は、むろん俳優の科白録りだ。神代作品などの例外はあっても、橋本さんは基本的には俳優の不明瞭な発声を嫌い、監督を差し置いて現場で新人俳優に活を入れるほどだった。脚本を大事にしたのだ。これがたかだか俳優の「個性」などによって不全にしか伝わらないことを映画鑑賞の損失とかんがえていたはずだ。
こうした橋本さんの折り目ただしい性質と最大限に「同調」したのが澤井信一郎監督だろう(澤井作品の素晴らしさは、折り目正しさが映画の肌理細かさとかならず有機的にむすびついてしまう組成の不可思議さにいつもある)。たとえば『Wの悲劇』での薬師丸ひろ子。彼女はもともと折り目正しいのだが、それ以前の作品では「声」に地金が貫かれていなかった。それを橋本さんは澤井さんと共同で「特訓」したのだった。『Wの悲劇』を再見すれば一目瞭然だろうが、あの作品が湧き起こす感動の一端は、薬師丸の「声の幅」、そのダイナミズムから生じる。それがあって次段階、根岸吉太郎『探偵物語』では薬師丸の「声」は、彼女のからだの多彩なうごきとともに、多彩な現実音と織りあわされ、今度は「配置」「混合」のダイナミズムを実現してゆくことにもなった。
というように書いてゆけば、書籍『ええ音やないか』にほぼ限定された思い出なのに、橋本さんのことばや表情の細部、さらには橋本さんの録音作品が次々によみがえってきて、記載が尽きない。あんまり重い原稿を書いてしまっては橋本さんの普段に反するのでそろそろ筆を擱かなければならないが、橋本さんが漂わす風情にどこか洒脱さを超えた、悪戯好き、あるいは逆転性もあったことを最後に言い添えておこう。それで一旦、「毒舌モード」が点火されると、橋本さんのあらゆるものへの機転をともなった批判は、もう腹の皮のよじれるほどの笑いをもたらすのだった。あの体質は戦後すぐの混乱期から映画の現場にはいったひと特有の無頼さにかかわるものにちがいない。
それでも橋本さんは、自分のかかわるひとに尊敬を惜しまないひとだった。澤井さん、坂東玉三郎さんへの熱い口調が印象にのこる。それから「声」のもととなる俳優たちへの崇拝も惜しまなかった。あるいは柿澤潔さんをはじめとする現役のお弟子さんたちへの配慮も温かかった。その橋本さんの「声」そのものをいま、おもいだす。高い地声がその幅で揺れながら、それがどこかで音楽と通底するものだったことはたしかだ。
ほんとうにお世話になりました。 合掌
2012年11月09日 阿部 嘉昭 URL 編集
このコメントは管理人のみ閲覧できます2012年11月17日 編集