三宅唱・playback ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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三宅唱・playback

 
 
CO2助成作品『やくたたず』、そして今回の初の劇場用作品『playback』と、映画美学校出身の三宅唱がモノクロ映画を立て続けに連打する理由は何なのか。モノクロは世界の現実提示ではなく、その抽象化にまずは関連がある。たとえば俳優は色をうしなって、ただひかりにさらされる物象へと還元され、そのなかで物質性をつよめる。

言い換えよう。60年代的モノクロ映画では増村保造にしても大島渚にしても吉田喜重にしても、画面のモノクロ化によって白と黒の二元論をスタイルとしてデザインすると同時に、俳優と世界に脱色をほどこすことによって実存的な不安をたかめていた。ただし多くの場合、そのことと相即するように、俳優の顔には玉の汗がひかって焦燥をえがいていた。三宅唱監督が異なるのはそこだ。彼の場合、俳優は冷えて、汗をかかない(『playback』では寝起きの村上淳の裸の胸元が一瞬、汗でひかっている例外がある)。

「脱」色というのはあきらかにマイナスの付加だ。「脱」「不」「非」で表さざるをえない現代的な何ものか。作品冒頭で描写される村上淳は、中国映画のアフレコ作業で何度も中国人監督にダメだしを食らう。その次には彼の自宅での起床シーン。冷蔵庫から取り出した牛乳を飲もうとするがコップ類はすべてもちだされていて、彼はシンク下にしまってあった計量カップでそれを呑まざるをえない。

あるいは、その次、画面進行の脈絡を欠いて人間ドックを終えた村上が病院の受付で処方箋をうけとったのち、三浦誠己に出会うシーンがある。村上はそこで三浦が誰か、三浦がそこに来た理由は何かを当初、憶いだせない(以後、村上に記憶崩壊の徴候が繰り返される)。

アフレコ・スタジオで中国人監督が日本語を喋らず(即座に通訳が補填するとはいえ)その発語に字幕がもちいられないこと。のちに召喚される高校の同級生・山本浩司の水戸での結婚式で新郎用の白スーツに身を包んだ山本がそれでも右脚をギプスで覆っていること。村上が水戸の高校生だったとき彼を俳優にひきあげた菅田俊が、現在の村上にもちこむ彼の主演企画映画(余生の短い自分「たち」にふさわしい喜劇のホンを自ら書いたと菅田はいう)の内容がこの映画の描写では茫漠としていること(しかも菅田だけその発声が大きく違和を生じること)。

映画はそうした「不」如意、「不」全を数々仕込んで、それに取り巻かれる村上淳に実存不安をあたえるのだが、対立構図の布置がなく、不安はいつも鈍さの印象をあたえる。そのなかで村上をはじめとした俳優たちの挙止だけが、鎮められているのに生々しい遠さとして画面にうごめいている。

モノクロによる脱色は東京の風景からも自明性をうばう。たとえばそれは台北の風景と似てしまう。中国人監督の召喚と一緒に、エドワード・ヤンの『台北ストーリー』終景のクルマのヘッドライトによる壁面の影の変遷、それと同等のものを作品が過たずに描出するからだ。

『playback』は、意識混濁者を主軸に据えた虚実の交錯をえがくといえば、北野武『Takeshis’』や園子温『夢の中へ』と比肩される作品かもしれない(村上淳は一瞬、園の『自転車吐息』の主題をなぞるかのように中央分離帯に存在を置く)。ただし『夢の中へ』の田中哲司、村上淳、オダギリジョーが、田中の夢に捉えられて、彷徨を基本動作とし(だから移動性は称揚されている)、そのなかで役柄自体を分岐させていったのにたいし、『playback』が基調に置いているのはクルマでの移動、スケートボードでの移動のさなか、その移動性自体を「自失」に追い込む見えない何ものかの把握だ。役柄は「男は母親に似た女を選ぶ」と語られたことで母と離婚する妻の二役を演じる渡辺真起子以外、分離しない(二重性をもたない)。

この映画で奇異なのはその移動のシーンだろう。スケボーの出るシーンは後述するが、クルマでの移動シーンには奇妙な罠が仕掛けられている。最初はフロントガラス側から狭い画角で、村上淳(運転者)、その高校時代の親友といった趣の渋川清彦(助手席)、三浦誠己(運転者らしいがハンドルとの連関がフレームアウトされている)、河井青葉(助手席)が分断的に捉えられ、しかも発声のズリ上げ、ズリ下げが駆使されて、二台のクルマの描写に分離軸が消されるような展開になる。

また渡辺真起子(このときは母親役)が座席三列のワゴン車の真ん中の列の座席に座り、後ろを振りむきながら息子=村上淳に疑惑をかけられた性的な「事件」について、ほとんどバカ話をするような磊落さで語っているときには、渡辺の背後に位置する運転者が誰かが欠落を誇示するように描出されない。クルマのなかでの人物の会話もほとんど有形な意味をのこさないという徹底ぶりだった。

現実/虚構交錯映画というレベルでいうと、北野武『Takeshis’』はもとより園子温『夢の中へ』よりも三宅の画面変転は徴候的で、一見おとなしいが(たとえば「実存不安」の作家エドワード・ヤンが照明の点滅をトレードマークにしたことは、結婚式の記念撮影のとき河井青葉の隣の三浦誠己が一瞬消えるカッティングの点滅性に代位される)、ズレの広がりという点ではより大きな運動量をもっている。そうなるのは作品の後半――1時間をすぎたあたりからだ。

前半は菅田俊との打ち合わせを拙速で終え、マネージャー小林ユウキチを残し、三浦誠己の運転するクルマで、出席を約束した結婚式に村上淳が、背中に鷲の意匠をあしらったテレンコした白シャツのまま水戸に向かうとき最初の明らかな転調を迎える。クルマでの移動を同調軸にして、村上がひとり地方路線バスの最後尾に乗る姿に変わり、そのとき彼は無精髭に代表される「現在性」を温存されたまま、詰襟の学生服を乱暴に着る高校生に転身しているのだった。

バスが校門前のバス停にとまると村上は降り、これまた学生服の山本浩司が背後から近づいて村上の(いつしかもっていた)学生鞄を奪い、ふたりが校庭で遊び戯れる展開となる。注意しなければならないのは、村上には夢想や過去が他者の方向から突然ちかづき、そこに参入させられるとき「悦び」ではなくたえず「自失」の印象を確実にのこすということだ。

このときは山本の公園カップルのバカっぽい「描写」(話の前提をうばわれているので同級生なのか自分なのかよくわからない)の披露があって、そこで村上のみならず、渋川清彦、河井青葉も学生服、セーラー服で蝟集、渋川と(見た目年齢が渋川より若い)担任・汐見ゆかり(のちの挿話で彼女が早逝したとわかる)のやりとりが描かれるが、その突然の、不自然な学生服着用による過去の再現は夢オチとして処理される。

ところが結婚式の描写に挟まれてゆくのちの高校時代のシーンは、渋川の通学用バイクを河井がこっそり乗って事故を起こしたくだりにしても、みな学生服、セーラー服のまま無媒介に挿入され、夢によるものといった変調理由、同定性をあたえられない。作品は過激な「プレイバック」の刻印をつづける。そうして叙述の「同軸」が過激に抹消されてゆくのが前半だった。

作品後半では「プレイバック」は、一度描出されたシーンが、ほとんど意味連関を変えられて再出されるというふうに、その位相を変化される(だから本作の発想モデルのひとつだったろう大島渚『帰ってきたヨッパライ』の、基本的に一対一対照のなかでの「反復とズレ」より、組成がさらに複雑だ)。黒味があって、起床する村上のおなじ蹠が大写しになったのち、前半最後で村上の起こした分譲地端の道路脇での「気絶」は東京での歩道橋下の「気絶」に位相変化され、離婚を決定した妻として渡辺真起子が登場、村上の記憶崩壊徴候がより明確化され、そのうえで人間ドックによるCTスキャン検査がはっきりと意味づけされる。村上「だけ」は作品前半の経緯をおぼえていて、病院の事務前で、前半とおなじように三浦が自分の肩を後ろから叩くのを「待つ」が、それは実現しない。このとき前半にあった俳優が学生服を着用する高校時代再現の間歇挿入は作品から「不如意にも」消えてしまう。

「それでもなぜか」結婚式のシチュエーションはのこり、村上が神父への誓いの最中、会場を退出するタイミングが微妙に変わり、そのときの村上を追う相手が変わり、それでおなじ科白がちがう俳優によって語られるなど、同軸が過激に変化したままの反復が起こるのだった(何がどうズレているかの指摘は煩瑣になるのでこれ以上は控える――ただし菅田の登場は反復されるが、前半に較べ後置される、とだけはいっておこう)。

不安なのはもう村上ではない。作品の組成そのものが「高度に」不安なのだ。しかも人物たちの語りは、菅田の説教にしても、村上のスケボーを火中から拾ったという渋川の述懐にしても、自分の子供を自慢する河井にしても、すべて「有形の意味」をなさない。意味の崩落がつづいてゆく。そのなかでかつて高校時代に恋仲だったとしめす徴候なのかどうか、河井と男優たちの目配せだけがつづくが、これもまた関係性などひとつも明示されない。

組成が不安で実質のない映画――そのように三宅唱『playback』を呼ぶこともできるだろうが、ところがズレや不穏さそのものがむしろ映画的な運動だという点は、スケボーがもちいられるシーンに現れている(微差ある反復を刻む運動が最も創意的だとしるす『差異と反復』のドゥルーズを想起する)。それらのシーンの緊張感と躍動感はただ事ではない。それが意味性と連関しないことなどどうでもいい。というか、連関しないことがむしろ緊張をたかめている、そんな描出の無償性が逆説化されているというべきなのかもしれない。

じつは作品の冒頭は、ロウティーンのスケボー男児が分譲地奥の道路で、わずかな傾斜を利用してスケボーをつづけ、それで道路脇に半分消えるように倒れている男の躯(これがのちの反復で村上淳だと「一致」する)を発見し、通報か逃避のためかその場を去るという一連のながれだった。カメラの客観的な位置取り、男児の軌跡を自然に追うカメラ運動なのだが、わずかな黒味によってショット間がつながれてゆく「それ自体がそれ自体でしかない」カッティング(青山真治『Helpless』が参照されたか)が、対象との距離によって異様な緊張をあたえる。それで発見された男が死んでいるのではないかという擬制が生まれる(実際この虚実を綯う作品ではその擬制が論理的に決して解かれない点に注意)。

しかも男児がスケボーで滑走する道自体が異様なのだ。褶曲して段差というか、ゆるやかな襞ができているのだった。のち、作品舞台が水戸と判明するから、その褶曲は東日本大震災の際の液状化によるものだったと判断がつく。場所そのものにあった磁力性はそこから生じていたのだ。

渋川の家から持ち出されたかつての村上所有のスケボー板は、村上の過去の残存を唯一しめす実証のように渋川のクルマに置かれている。結婚式を抜け出してそれを村上がもちだし、追ってきた者(三浦と河井)も「振って」、会場構内を出て分譲地へ足を踏み入れたとき冒頭場面との「場所の一致」が起こる。褶曲した路面のうえをやや不自由に村上は滑り、亀裂をまえにしてスケボーを停める。そして窪みに足を入れたのち、反転するように道路脇に身を横たえる。以後、動かない。眠りなのか気絶なのか死なのかその画面では判定がつかない。そこに冒頭の男児がスケボーで滑ってきて、村上のうごかない不気味な躯を見つけ、その場をまた去ってゆく。この「一致」をもって作品の前半が終わるのだった。

作品後半のスケボー滑走場面は、結婚式を途中で抜けた村上が、今度は渋川を「振り」、スケボー板をもって分譲地奥の道路に降り立つところからはじまる。村上が滑走をはじめると先の男児が追い抜き、村上を見るでもなく振り返って仲間を呼ぶと、年齢幅のあるスケボー仲間がつぎつぎと「増殖するように」画面に現れ、ある者は村上を抜き、ある者は無関係のまま村上と並走するうごきをかたどる。順序と数にまつわっての「ズレ」がこうして不穏にかたどられるのだが、なにしろ人員の「増殖」が予想を超えていて、意味化できないシーンなのに動悸が止まらない。北野武にも園子温にも決して実現できない画面展開だ。そのなかで当初、道端に座るとみえた村上が、またも道路脇に同じ恰好で伸びてしまう。

この場面は強度をもったまま意味を結実しない。後半のその後のどこにも意味的な連関をしてゆかないのだ。この「着地しないこと」が作品の結末がどう描かれようと、不安な澱となってのこる。『playback』が人物の規定でも物語でもなく、作品の組成によって先験的に不安だというのはまさにこの点からだ。なんという作品強度だろう。監督・脚本・編集の三宅唱の才能は確実に刻印された。同時に「壊れもの=フラジャイル」村上淳の倦怠の素晴らしさも見事な現在性で定着された。

――オーディトリアム渋谷で現在上映中。
 
 

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2012年11月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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