年鑑号
「詩手帖」年鑑号がとどく。フェイスブックなどをみると、東京を中心にした関東のひとより、札幌は最大で郵送到達が二日遅れるのだ、と改めて知る。
年間詩集回顧(総括)として、13頁の長きにわたり、ぼくの論考「詩と空間について」が掲載されている。偏りなしに計18詩集を、その詩集が未読者にもイメージされるまで論じた結果だ。このところのぼくの哲学的関心事「空間」を、現在ありうべき詩性とからませて論を展開している、自分にとっても大切な文章なので、ぜひいろいろなひとに読んでほしいとおもう。40枚の原稿だったが、それでも圧縮に苦労して書かれたと、つたわるはずだ。
ところでまだバラバラめくっただけだが、年鑑号の誌面構成に異変が起こっている。「アンケート=今年の収穫」欄が縮小されているのだ。詩集10冊、詩誌から10篇、すぐれているとおもうものをえらび、その理由を書け、というのが例年の要請だったが、まずは半数の5冊5篇選出へと枠組が締め上げられた。
それだけではない。選者そのものが大幅に削られている。ぼく自身は、年間詩集回顧との重複を避けるため、アンケート選者からは除外したい旨、編集部から連絡があったが、ぼくの大事な知己が数多く選者から抜けているのはどうしたことだろう。具体的な誰々がどんな詩集を挙げるか、それがかなりの数、わからなくなって、五里霧中のなかに突き出された感触がある。
もともと年鑑号でいちばん好きだったのが、「アンケート=今年の収穫」欄だった。多様な選者が蝟集するそこでこそ、選ばれる詩集詩篇詩書の幅が拡大したのだ。「権威」の書く回顧記事とはことなり選択の自由もたっとばれていて、それで一年間に発表された膨大な「詩のひろがり」が実感できた。年鑑号で最も民主的なこの欄から、いずれ、挙げられた詩集数などを指数化して、真の「現代詩手帖年度賞」が年間ベスト5のようなかたちで創設されないか、などと望みさえもっていたのだった。
年年歳歳、あたらしい意欲的な書き手が現れるのだから、選者数そのものが膨大になってきて、それで十年前ていどくらいに、誌面幅を圧縮しなければならなくなった編集事情も理解できる。ところが整理のつかなくなるほど加速してきたこの「膨大性」は、むしろ詩作フィールドそのものの「実情」であって、編集部が整理を怠ってきた結果などではないのだ。誇張していうならば、アンケート欄だけに、年鑑号の「うごく実勢」があった。だから逆コースに舵が切られたことを残念におもう。
平田俊子さんが書くように、「詩壇挨拶」のため選定の規定冊数を倍増どころか十倍増くらいにまでして、送られてきた詩集をせっせと書き出し、曖昧な選定理由しか書けない、これまでの一部の回答者も問題だった(「詩壇挨拶」は巻頭鼎談だけで充分だ)。今回割愛されるべきだったのはそういうひとたちだったはずだ。退場させられてしまった若手の才能ある詩作者たちは内実がちがった。仲間意識がみえすぎる回答者もいたが。
むろんアンケートは詩集名、詩篇名など、「名」が書かれるだけで充足するものではない。「選定理由」を書け、という依頼の意図もそこにある。ところが理由を書かずに名の列挙だけで済ます回答者が一定数いる。体たらくといっていい。紙幅がふえるから、というのも理由にならない。最良の一文、最良の(わずかな)部分引用だけで対象の良さをつたえることだってできるはずだ。むしろそういう「引用芸」こそに接したいのに、それを怠っている回答者は、思考停止者めいてじつは好きになれない。
いずれにせよ、アンケート欄のボリューム復活は、今回、回答者の座からおろされたひとのみならず、複数のひとが編集部に懇願して、目指されるべきものだとおもう。ということでまずはぼくが一筆書いた。後続を望みます。