FC2ブログ

小池昌代・ババ、バサラ、サラバ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

小池昌代・ババ、バサラ、サラバのページです。

小池昌代・ババ、バサラ、サラバ

小池昌代の頭のなかがどうなっているのか、
時に彼女の爽やかな挙止を見つつおもうことがある。
その頭脳は柔軟で、自身の生、見聞するあれこれから
絶えず何か(「詩性」と呼ぶべきもの)を発見・確認している。
勘のいい人だとは、僕はこの日記欄で前言したが、
常に慎重で、気を許した相手以外には胸襟を開かない。
そして気を許した相手には、心中深い焔を垣間見せることもある。
その焔は真紅の絢爛ではなく、漆黒の凄みを湛えることもある。
慎ましく此世に身を置きながら、
ふと「此世にいない者」の奥行をもそこに感知させるのだ。
小池詩のファンはそうしたたたずまいの清潔を熟知しているだろう。

小池昌代の縁語は
糸、裁縫といった縫製全般に関わる語の領域にとくにある。
此世を見て、束状になっている「文」をそこから感知し、
それをどう配備するかで、詩や小説や随筆を「紡いで」ゆくのだ。
針に糸を通して文は縫われ並べられてゆくが、
彼女の織物は、するするとほぐれだすような脆い組成も時に誇り、
そうした自律性のなさが、
第一文から最終文まで綿密な組成で縛られる小説にたいし
詩文の根拠となってゆくのだとおもう。

したがって「散文脈」の論難は小池詩には固より当てはまらない。
というか、彼女は散文と詩の結婚のようなものを
はじめから志向しているといったほうが近道だろう。

新詩集『ババ、バサラ、サラバ』(本阿弥書店)には
はっきりと裁縫の縁語が連続する、
「針山」という詩篇が収められている。

針山のなかに入っているのは
椿油をしみこませた人毛だよ

冒頭から、奇怪な幻想がこのように語られてゆくが、
不審がられもしようこの二行目の語尾は
やがてそれが「祖母」の発話だったという後づけを得る。
祖母は生来の盲目だったという真偽の定かでない事実提示があり、
縫い針に糸を通す役目は幼い自身だったという述懐があって――



つばをつけてよって糸の先を
こころをとがらせ つきとおす
向こう側へ
裁縫はたのしい
つきさしてぬく
貫通のよろこび



貫通にまつわるこの「よろこび」に
「喜び」ではなく「悦び」の字も当てはまるのではと
ふと男性読者なら不安になるだろう。
案の定、この四行先から恐ろしい詩行の運びとなる。



わたくしはまだ 十三歳ですけれど
貫通ならもうとっくに知っています
けど それは
わたくしにとって 痛みでしかない
おとこたちが かぶさってきて
とがった針の先で
わたくしをつつく
ひとはり
ひとはり
縫いこめていく
糸を引き抜くとき
布とこすれあう音がするでしょう
しゅっ、しゅっと
火がおこる
摩擦音って官能的だ



問題は「裁縫」という、火と無縁の領域に
女性特有的に、火が熾ってしまう点ではないだろうか。
小池の詩ではこれまで女性性は水性と連絡することが多かったが
それがこのように発火容易性と結びつけられることで
当然、衝撃が走ってゆく。
発火は炭化とも別の詩篇で類縁を演じる。
以下、集中「歴史」の衝撃の詩行。



炭の母の
目鼻はもう区別できない
乳房と腹のやわらかなふくらみ
二重に描いた杏の種のような
陰唇のかたちが
股のあいだに
くっきりと残っている

それは女がお産するときの
いきみのポーズに
よく似ていた



この「炭の母」は詩行のそののちの流れからして、
東京大空襲の写真展か何かで小池が見聞したものから
発想源を得ているだろうと読者は見当をつける。
ただし小池はその「炭の母」に完全同化して、
結果、自らの「異相」を読者につきつける挙にも出るのだ。

引き抜いた行には、詩に特有な、言葉の変成や
律動による音楽化の痕跡ははっきりと見当たらない。
意味はどうあれ散文性を穏やかにまとっている。
だがこの「意味はどうあれ」が問題なのだ。
「意味」は容易に小池の生を超えた別次元の恐怖を
読者の眼前に召喚しだして、
それで散文の束が確実に詩文の束へと転化してゆく。
つまり散文は散文なのだが、
その文には悪意ある変貌容易性が仕組まれてもいて、
それに気づいた途端、「散文」の保証が溶けだすのだった。

小池の詩篇の多くに「随筆詩」というジャンル名を
人は重ねたがるかもしれない。
だが「随筆」にないものがそこに確実にある。
「対象同化」もまた、そのひとつだろう。

小池と思われる主体が昔、付き合っている男の留守居で無聊を感じ
書棚からフェルメールの画集を取り出したという
向田邦子の随筆のような設定の「中断された音楽の稽古」。
この詩篇タイトルはそのままフェルメールの画題なのだが、
小池はその絵のなかの女と「同調」してしまう。こんな具合――



女のほうは まるでいま 誰かに呼ばれたというように
手紙から顔をあげて
視線を絵の外へ あいまいに延ばしている
わたしはふりかえって 背後を見た
わたしでない誰かが
ほんとうにそのとき 彼女を呼んだような気がして。



ああ、「背後」がまた現れた、とおもった。
読者はかつての小池の衝撃的な詩行を忘れてはいないだろう。
《わたしの背後を/滝が落ちていく/人も。》
(『もっとも官能的な部屋』所載「背後」)。
永田耕衣の名吟《後ろにも髪脱け落つる山河かな》にも匹敵する
壮絶な「背後」だとおもう。

小池の場合、「背後」とは女性性意識のなかで堅守する領域を覆す、
「魔の領域」ということができるのではないか。
それは小池の慎重を脅かすものとしてあるのか
逆に勘の良い彼女の動物性を逆証するものとしてあるのか
いまのところ、よく考えたことがない。
ただ、手許を守ろうとして背面を晒す女の姿からは
陰唇のかたちを表して焼け死んでしまったような凄惨も現れる。
その凄惨には、「同調」とは逆、
「同調不能の孤独」といった凄みが写しこまれる。

筆者がおもわずさしぐんでしまった
『ババ、バサラ、サラバ』中の「随筆詩」と呼ぶべきものに、
「手暗がり」という詩篇がある。
小池が自分の「こども」に往年の家族写真を見せている、
という穏やかな導入からはじまるこの詩は、
ロラン・バルトの写真論と遠く触れ合うように
写真のなかの「母(つまり「こども」にとっての祖母)の不在」を
やがて主題にしはじめる。

(そろそろこの小池の詩集名『ババ、バサラ、サラバ』の由来が
この欄の読者にも朧げに感知されるようになったかもしれない。
小池は「バ」の破裂音が好きで
詩集名はそのような頭韻を踏み語の逆転も呼んだと
「あとがき」で明かすのだが、
収録詩では前の「針山」やこの詩に見られるように
「祖母」の登場が多く、「ババ」はそこからも確かに来ている。

むろん「母の母」とは女の連続性をしめす。
さらに吉田喜重の『エロス+虐殺』ではないが
「母の母の母」ならばもはや
名づけえぬ女性的連続性の漠たる領域を指すだろう。

その領域と、あとで見るように「死」が関わる。
それで詩集名に「サラバ」の語が入る。
一方「バサラ」は変貌容易性という散文のヤクザな属性に関わる)。

話を戻して――「手暗がり」。
家族写真にいつも不在の母にたいし、
小池(とおもわれる主体)は「こども」に
こんなそっけない説明をする――
《おばあちゃんは いつだって/たいてい写真にうつっていない》。

なぜか。写真撮影がその日の慶事をきっかけにしているなら
女は台所で料理に専念していたという一旦の説明ののち、
《わたしはこどもと写真のなかに入っていく》。
すると台所仕事をしている母が見えだす。
その後ろ姿に《なにをしているの?》。
今度は小池の主体のほうが女の「背後」にいる点に注意してもらい、
この詩篇の「泣ける」最終行までを一挙に抜いてしまおう。



彼女の手が為している
なにか、とてもだいじなこと
でも
それは聞けない、聞いてはいけない
背中のむこう
手暗がり、と呼ばれる小さな地所

母はほこりだらけの電球(六十ワット)を磨いていたのかもしれない

かさこさかさこそ
豆が煮えている
ガスの炎が 青くゆらめく

それとも泣いているのかしら

おかあさん、と呼ぶ
おばあちゃん、とこどもが呼ぶ

ぐらぐらと無関係に小さな地震がある

あんたたちはむこうへ行ってなさいよ

ついに振り向かない母が言う

茶箪笥のうしろで死んでいるネズミ

あんたたちはむこうへ行ってなさいよ



女の手許にのみ女が守る領域があって、
それは秘匿を宿命づけられている。
たぶんそれを盗み見れば
鹿の姿に変えられるか、
あるいは見つめられた対象そのものが塩の柱になってしまうのだ。
豆を煮るガスの炎の「青」は
女の仕事が魔女的な「調合」に関わっている点を告げる。

しかし、横に伸びる詩行にたいし
縦に参画してくる「幻想」の束は何だろう。
「電球」「地震」「ネズミ」。
その挿入がひとつのリズムをつくり、
同時に、「あんたたちはむこうへ行ってなさいよ」の反復が
その反復によって孤独から生起する「拒絶」を強調する。

背面を見られる女の凄惨がまず「泣ける」のだが、
女の背後にいるのも「女」であって、
その女にもさらに「背後」があるはずだ、という
予想の不如意が余計に読者を「泣かせる」のではないか。

埃だらけの電球を磨くことと裁縫には
手許の世界・手許の対象の創出という動作の類縁がある。
そしてこの詩集では手許の創出が不意に中断されるときに
死が舞いこんでくる。
小池は死では女の死を中心に綴り、そこから自身の死すら幻覚する。



金魚の世界が転倒する
金魚が死ぬ あたしが死んだ
縦のものが そのとき横になって
(「金魚」)



死ぬ以外は
何ひとつ起こらなかったあの日
わたしにとっての最良の一日を
わたしはいまも懐かしく思い出す
傍に誰もいないで たった一人で
(「わたしが死んだ日」)



このような「自己同化」的な死の一方で、
死の実相――「中断」が素っ気無く綴られる
(《中断というのは いやなものですね》という、もろの吐露も
前出「中断された音楽の稽古」中に見出される)。
《生きていることは そのように/いつも途中のことなのだから
/そして死は/途中の、いきなりの/裁断なのだから》。
「裁断」の「裁」の字から「裁縫」が透けてみえだす。

この詩集中、最も壮絶な死が描かれるのは
「針山」中の祖母だろう。詩篇ラストはこうだった。



針を針山にぷつっと戻すと
およびがきたよ
平成十七年十月のこと
物凄い目で
わたくしを一瞥して
襖のむこうへ消えていった
針山のなかに残されたのは
椿油のたっぷりしみこんだ
顔のない
女たちの髪



女は「女たち」としてしか存在しない――
つまり個別に同定できない。
ただ「死」のみは個別性として残酷に出来する。
それが、このような幻想装置のもとで語られているとおもった。
確実にここには「詩」が現れている。

この「針山」には、鳥肌の立つ罵詈雑言が一瞬現れる。

おまえの身体はおまえのものなんかじゃない
ばかやろう

「身体」は「女たち総体」の一部としてしか規定しえない
――このことが詩篇の最終相から把握されるとしても、
一旦、読者がこの二行に感じるのは小池の真面目さかもしれない。
自傷・自殺に走る少女たちは、
自己身体を自身の所有物だと錯覚している。
それへの鷲田清一的な警鐘がここにあるのではないか、と。
ただし、論語から哲学認識までふくめ
自己身体の所有不能性を多元的に語る鷲田にたいし
小池は、自己身体は名指しえぬ「時間」にこそ属していると
ただ潔癖に主唱するだけだとおもう。



「恐怖」を突きつけえたときに小池の詩は目覚しく迫ってくるが、
小池の詩が一回の消費で終わらず再読に値するのは
そこに哲学的な認識が非明示的に裏打ちされているためだ。
それは詩篇から詩篇への横断によってさらに強化される。

「女たち」の時間を「貫通」する非人称的な女性連続体を
吉田喜重『エロス+虐殺』のような不可知性ではなく、
実は、恩寵という布置のなかで小池は捉えている。
それがわかるのは、「反復」についての狂奔をしめす
集中の「タンカクウカン」ではないだろうか。
メルボルン詩祭での短歌朗読、
という小池自身の体験に基づくこの詩篇では、
短歌朗読が一首の二度の朗詠を習慣化している点に論及が至る。
そこで圧倒的――ドゥルーズ的な「反復」へと思考が舞い踊る。



二度詠めば意味がとりやすくなるでしょう。
二度詠めば印象がつよくなります。
一度目は去っていく、けれど二度目は
生き始める。



反復を考究するのに反復をもってする、という建前もあるが、
詩篇は次の間歇する二行で「自然発火」に移る。
ゾッとする言葉遣いなのだが、事柄は哲学的なのだ。

繰り返しは やばい、世界に拍車をかける。

つまり、二度ということは、すでにその時点で、二度以上ということなのです。

小池のこれらの言葉づかいにこそ「バサラ」を僕は感じてしまう。
そしてこの気質がもともと彼女に具わっていたともおもいいたる。
小池昌代は散文性を選びつつも、やはり「自在」なのだった。

最後に「反復」により「発火」している彼女の詩行を抜いておこう。



からまちまのまちの
からまちまのひとびとは
からまちまのふくをきて
からまちまをおどる
からまちまのゆめをみて
からまちまのにおいのする
からまちまのとおりで
からまちまをかなしむ
(「ねじまわし」一節)

【※客観評論を目すため、小池さんの敬称は省略しました】

スポンサーサイト



2008年02月12日 現代詩 トラックバック(1) コメント(0)












管理者にだけ公開する

トラックバックURL
http://abecasio.blog108.fc2.com/tb.php/143-02fc3a62

バサラって・・・

10,500円以上のご注文で送料無料【沼田厳選】ナショナル パンツプレス nz-...

2008年03月23日 バサラの秘密知ってます?最新自動車情報