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「詩の主体」(補足つき) ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

「詩の主体」(補足つき)のページです。

「詩の主体」(補足つき)

「詩の主体」ということに関して
とある日記でプリミティヴなことが書かれていたので、
以下、とりあえず簡単に僕の考えを整理しておく。

その一文にはこうあった――
《もはや特権的な主体のあり方はできないという形の、主体しか成り立たない》。

即座にこの書き方に撞着を見なければ嘘だろう。
まずこの一文では「特権的な主体のあり方はできない」
「主体しかなり立たない」の二層において
「主体」の存在が完全肯定されている。

文全体の意味としては
「特権的な主体」は否定されるべきだ、ということでしかないが、
元来「主体」に「特権的」という形容が馴染むとするこの見解が
すでに「特権的」なのだ、という論理の罠に
この一文は気づこうとしていない。
「主体」と「特権」が形容によって結びつくという
看過できない謬見をもこの一文は示してしまっている。

推測するに、たとえばmixi上に、
とある「主体」が一方的に他者を論難する文章があったとして、
そんな「主体」をこの一文は特権的と名指しているのかもしれない。
とすれば、それもナイーヴにすぎる把握というしかないだろう。

たとえば「日記」や「評論」に「私」を書く。
するとその「私」が即座に特権化されるのか。
――事態は逆だろう。
「私」が「私」を書くというこの再帰構造は
「書く主体」と「書かれる客体」、その関係の分離不能性が
別次元から考慮されなければならないとただ証しするだけだ。
事は論理学の問題だ。
ここでは事柄を「真」とすべき判断の軸が存在しないのだ。
だから「日記」は書けば書くほど、
「私」の不可能を引き当ててゆくしかない。
それでmixiでの日記書きも習慣化する。



詩的主体の不可能というか
それを論議することにすでに意味がない点は
入澤康夫がその慎重な詩論で縷々述べてきた。
詩文中に「私」と書いて、
それが詩作者の固有性から何の裏打ちも受けない――
それは詩の本質がフィクショナルなためでなく、
僕の言葉でいえば、詩言語がもともと
指示機能に代表される同定性を剥奪されているために起こる
着実な反作用だといえるだろう。

つまりあらためて「主体」という言葉を出したその場では
「詩論の継続」が損なわれているのが明瞭だということだ。
「気風の持続」とともに「詩論の継続」も
詩作を志す者にとっての重要事ではなかったのだろうか。

むろん読者は作品の背景から作者のたたずまいや個人史を
「憶測」する愉しみならもつが、
それはただ言葉によって言葉だけが書かれる、
詩作品の鑑賞の本質ではない。
この興味に横たわっているのは付帯性であり、不透明性だ。
むしろ、詩がたとえば固有名の消去などの作業をおこない、
その欠落を解釈せよ、と強制するときにこそ、
詩作品に無用な特権構造が出現した、というべきだろう。

ただ、こういう問題が「詩の主体」の領域にない点は
論理的にも理解されるとおもう。
単に「書き方」の問題、というだけだ。
論議の対象を必要以上に大きくするのも愚かしい。



僕は別に、詩に「主体」が想定しえないという
極論を展開しようとしているのではない。
詩にも主体擬制はあるが、
冒頭引用文とはまったく立論の順序が異なる、ということだ。

以下、すごく当たり前のことをいうことになる。
ご海容ねがいたい。

詩は書かれる――
その書かれたことによって主体が逆証される。
主体=作者の位置はそうした狭隘な範囲にしか実際にない。
この単純な事実からは、
「特権」などといった武張った言葉が関与する余地もない。

詩が言語の魔術性を志向するとすれば、
書かれた詩が作者を構造的に逆照射することによって
その魔術性も作者のほうに逆流してゆく。
結果、起こること――それは、作者=主体の破砕、だ。

(主体の消滅、という点に関しては
「われわれ」は近年、ずっとそれに腐心してきたのではなかったか。
それでなければ、ただ書けばいい詩にたいして
なぜ緊密な連絡の必要な集団の連詩を志して、
この面倒くさい主体を扼そうとなどしただろう)



それに主体と客体の関係がもともとそうなのだ。
《周吉は水枕を探し出せない。
しかしその水枕は周吉の間近にあった》という例文を
ここにあえて召喚してみようか。
この例文で明瞭なのは、
周吉が水枕を「見る/見ない」ではなく、
水枕が周吉を見ているという事実のほうだけだ。
そのことだけが、事実の推移の外側に
確固として存在している。

主体が(作用)客体を見る、のではなく、
(作用)客体が主体を見る――というのは
ラカンもメルロ=ポンティも考察のなかで繰り返してきた。
見解は精確で、当然それは詩作者にも評論家にも援用できるだろう。
詩においては、詩作者が詩篇を見ているのではなく、
詩篇が詩作者を見ているということだ。
このスリルなしに、詩作は悦びとならないのではないか。

このとき、書く主体「私」と
書かれた主体「私」が一見、同一な構造をもつ詩に
ただちに論理の罠が生起するとも気づく。
客体が主体を見る、という通念とは逆の経路を辿っても
「私=私」という同語反復の撞着に陥ってしまうのではないか
――警戒心は確かにその方向に発動するだろう。

ただし、入澤康夫のいうように、
詩では「先験的に」「私」の定位などは不可能なのだから
上記「私詩」に、循環構造や循環の動きを確認できても、
詩が正しく、「非定義語」で書かれるならば、そこで
主体への「特権的」膠着など何一つ起こらない、というべきだ。

つまり《もはや特権的な主体のあり方はできないという形の、主体しか成り立たない》、
そうした評言の成立する場とは、
詩作の技術が低劣な、論議に値しない磁圏にすぎず、
それをあえて言い募る評言のほうに特権性が隠れていて
それこそが意図的に等閑視されている、というしかない。

なぜこんな言説が罷りとおるのか。
「仮想敵擁立」の戦術だ、といわれるかもしれない。
ところがこの場合の「敵」とは果たして何なのか。
論議に値しない磁圏だといましがた記したが、
恐ろしいのは「敵の捏造」にすら事態が通じていないかという点だ。
敵を「捏造」して、それに対抗し、自身が「成り上がろう」とすれば
そこに「権威意識」という言いたくない語が介在してこざるをえない。
僕は往年、「カイエ・ジャポン」にその種の言説を数多く見た。

大体、敵が確実に存在するとして、詩に間近な敵など必要だろうか。
無限遠点の敵に対抗するならともかく。
俗情に、詩という上位文芸が依拠してはならないだろう、
小説ならともかく
(一見、「俗情」にまみれた詩が逆転をけみして輝く事例はある
――むろんこのことが閑却されてはならないが)。



私性の定位不能は
最も私性のつよいと見なされている短歌でも成立する。

岡井隆の『歳月の贈物』(78)から引こう。

《さんごじゆの実のなる垣にかこまれてあはれわたくし専(もは)ら私(わたくし)》

ここでは珊瑚樹の垣根に囲まれた
「私」だけがただ唄われている。
しかし問題は、「私」だけが唄われているという事実になく、
垣根に囲まれて私が私として純化したという
周辺関係を前提にした歌意のほうであり、
「わたくし」がつくりだす前代未聞の韻のほうだ。

歌意の中心は、
鏡の迷宮にいて「自己確信者」スティリターノが恐慌に陥ったという
ジュネ『泥棒日記』の一挿話のほうにむしろちかい。
この岡井の歌の根底にも、「自叙」は根本的に不可能だが
その不可能の周囲に詩的な残余が成立するという見解があるだろう。



《特権的な主体のあり方はできないという形の、主体》を操って詩を書く者が
「特権性」にまみれている点はすでに言及できたとおもうが、
その「主体」の書くだろう詩が「大袈裟な」権威意識に満ちみちている点も
上記・岡井短歌の慎ましさから単純に予想がつくとおもう。

こういうことだ――

間違った命題にたいしては
構造的に間違った解答しか出てこないのは常だが、
事は、間違った解答としてあらかじめ詩を書きつけてしまった者が
間違った命題を事後的に後づけしてしまった点にあるのではないか。
今回の僕の日記は、要約するなら以上の論点に尽きるのかもしれない。

このままではmixi上の論議が濁る、とおもったので
あえて以上のような文章をしたためてみた。

なるべく正確に端的に書いたつもりだが
果たして文意が伝わっただろうか。




(補足)

書き付けた日記内容が
誤読される惧れがあるのではないかと考え、
以下を補足します。

当初、僕は
《もはや特権的な主体のあり方はできないという形の、主体しか成り立たない》
の意味がまったくわからなかった。
よくよく考えてみると、
この文の奥には
「書くこと=特権性」という布置が潜在しているようなのだ。

むろん、それはモダンと呼ばれる現在
一切、首肯できる認識ではない。
たとえばフランツ・カフカの文学的営為を念頭に置くだけで
僕のそうした疑問もすぐに支持を得るだろうとおもう。

それで上記日記でした最初の作業は
「特権性」の言葉の意味/波及範囲を置き換えることだった。
そして「特権性」を言い募る者に
「特権的」の形容を再貼付しようと図った。

このあたりの経緯を読み損ねられると
日記全体の文脈を不充分に汲まれる惧れなしとしない。
だからあえて、日記にこの補足を加えました

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2008年02月18日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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