空間、右手左手 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

空間、右手左手のページです。

空間、右手左手

 
 
昨日は全学授業、講座会議のあと、押野先生と応先生に誘われて、修論提出打ち上げの院生のつどいに行ってしまった。「ちょいと一杯のつもり」が結局は一次会の根室食堂から二次会のかんろの閉店までいて、午前様のタクシー客となってしまう。座の終わり間際で腹を抱えて笑いつづけた体感がのこっているのだが、さて何を可笑しがったのか、記憶がとんでいる。

おかげで今日午前は宿酔、予定していた健康診断も順延した。午後になってようやくアタマがはっきりとしだし、新年以来、ふれることのできなかった詩句書のたぐいにふれはじめる。以下はその簡単な寸評。

川上未映子さん『水瓶』。去年の「詩手帖」年鑑号の詩集年間回顧記事の執筆までに入手できず気になっていた一書。川上については小説『ヘヴン』への感動以後、最初にかんじた詩への違和感も溶解したのではないかと期待をもって手にとった。結果は微妙。意味がこわれ、同時に音韻意識の貫通している散文体の詩篇がならぶのだが、最近、「圧縮体」をこのんでいる自分にとって、換喩傾斜の現在的意義はみとめられるものの、やや聯想の恣意に疲弊する感触がつづいた。

彼女にとって小説/詩文の分断線は何だろう。換喩が空間を呼び寄せ、そこに心情化の現出するばあいを小説、換喩が音韻を呼び寄せ、そこに創造的な混乱の提示されるばあいを詩文といっていいだろう。ところが詩もことばのはこびのなかで空間性が如実な骨組みとなる瞬間に閃光を放つ、という逆説があるようなのだ。たとえば以下。

《老女はもうすぐ終わるベッドのうえで、もうすぐほんとの終わりかけ。ほんとのちょっとの瞬きに、すべてが黄色い夢を見ます。それは黄色いあつい夏の日のこと。老女は長く生きたけど、この夏の日のことを思いだしたのはその生涯で一度きり、この瞬きのことでした。老女はもう、自分の名前を忘れてしまった、黄色い夏の、青年の、すてきな名前ももちろん忘れた。あんなにきれいな名前です。覚えているのは、黄色いばかりの、「しびれる、足を、もっとみて」。//生きてるあいだは忙しかった。けれど老女はもうすぐ終わるベッドのうえで、もうすぐほんとの終わりかけ。老女を最後に訪れたのは、それは黄色いあつい夏の日です。我々が知るのはいつだってつみあがってきた日々のあれこれ。こちらから見れば、すなわちそこは、生きています。》(「バナナフィッシュにうってつけだった日」最終二段落)。

ぼくは「ベッド」とともに、「夏の日」「日々」までもを「空間」ととらえてしまう。「こちらから見れば」という往相のことばのもつ機能がそれほど大きい、ということだ。すると、「声」も遡行的に「空間」に変成してしまうのではないか。それで、鉤括弧でくくられた「声」--「しびれる、足を、もっとみて」も「くくられる一定性」をもつゆえに、これを場所とおもってしまう。そのような錯視が、たぶん読解行動に電撃をもたらすのではないか。

『水瓶』ではほかに「わたしの赤ちゃん」が素晴らしい。川上の出産体験が、空間をことばにかえる生々しさにみちている。ところが途中、小説的な「文」(この一篇がもっとも小説にちかい)が「詩」に変成するくだりになると、たちまち空間性が溶解するグダグダとなって弛緩の生じてしまうのが惜しい。いいたいことが伝わりにくいかもしれないが、実際は「音韻とは空間のことなのだ」。それを川上未映子につたえるひとが必要なのではないか。たとえば川上『ヘヴン』はそれに成功している。

巻末に収められた書下ろしの標題詩篇「水瓶」は、水瓶にまつわる奔放な想像力、意味変転力に感動したものの、ひとつのことでブレーキがかかった。詩篇中で数々用いられている語「少女」がダメだったのだ。むろんぼくの個人的な問題にすぎないが、ぼくはどうも「少女」を詩中につかうことが近年、まったくなくなったらしい。この語をつかった瞬間に詩が陳腐化する気がするからだ。いずれ評論でもそうなるかもしれない。ミソジニーが気分のなかを上昇しつつあって、それで槍玉にあがるのが語「少女」なのではないか。

ともあれ、暗喩ではなく換喩が詩作の本質と見極めるようになってから、「空間」「場所」にたいする感受が鋭敏になってきたような気がする。おなじ意識は俳句読解にもかかわるようだ。その流れで、高岡修さんのあたらしい句集『果てるまで』を読んだ。

表題作となる幽玄な一句、《果てるまでこの遊星の白あやめ》は事物の一句だろうか、象徴の一句だろうか。それでぼくはためらわず感じてしまう、これもまた「空間=場所」の一句だと。そうおもって打たれるのだ。

高岡さんだからとうぜん秀句目白押しの一書なのだが、「空間の句」として震撼をおぼえたのは以下の二句だ。

昼顔に昼顔つなぎゆく遠さ

一瀑は柩にいれて立てておく

もうひとつ、素晴らしい手の句がある。手が「場所」と離れて記述できない宿命を句が負っていて、そこでの「右手」「左手」を以下、対屏風にしてみよう。

右手置く一万年後の春の辺に

左手を菫と思う西の窓

またぞろいわれそうなのが、それぞれの句の「右手」「左手」は「左手」「右手」に動かないのか、ということだろう。ぼくのかんがえでは動かない。「みぎて」の三音、「左手」の四音は「絶対」で、ここでは音韻ではなく音律がたぶんそのまま「空間」だからだ。むろん「左手」「右手」には罠がある。それぞれ「ゆんで」「めて」という古語の「3」「2」の「音数」をかくしもつからだ。ところがその二重性をも、ぼくは空間=場所だとおもってしまう。
 
 

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2013年01月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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