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松江哲明・フラッシュバックメモリーズ3D ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

松江哲明・フラッシュバックメモリーズ3Dのページです。

松江哲明・フラッシュバックメモリーズ3D

 
 
1月19日から公開になる松江哲明監督の3Dドキュメンタリー、『フラッシュバックメモリーズ3D』の、東京での試写にどうしても行くことができず、松江監督の温情で、反則だがその2D版DVDをみせてもらう。3D上映ではないのだけど、からだと脳が底の底までゆさぶられた。

簡単に全体を紹介すると、オーストラリア・アボリジニの特異な吹奏楽器ディジュリドゥを自在にあやつる日本の奏者GOMAが、09年11月、高速道路で交通事故に遭い、高次脳機能障害で記憶が刻々消滅してゆく病状に陥りながら、演奏者として再起を果たすまでが多層的な進行で捉えられる。

画面の基本構成は前景・後景の二層。大づかみにいうと、後景には過去のGOMAたちの演奏シーン、過去の写真や家族ビデオ映像、事故の前後を創作した映像(進行するクルマのフロントガラスから捉えられた高速道路の光景をCGアニメ処理したものや、GOMA自身が体験した臨死体験映像)、GOMAとその妻のしるした事故後の苦闘をつたえる日記文面の接写など「過去の映像」が配され、それと合成される前景の映像には「現在の」再起したGOMAとそのグループ、The Jungle Rhythm Sectionの映像が配される。

つまり過去の前景に現在が飛び出し、その現在の尖端に、GOMAが前方にもちあげるように吹く楽器ディジュリドゥが棘のように観客に突き出される、というわけだ。3D上映ならこのレイアー型布置による立体性がそのまま観客の眼と身体を直撃し、しかもディジュリドゥの音そのもののすごさも爆音上映されて、時間、記憶、再生が主題と知りつつ、まずはトランスに陥ってゆくだろうとおもわれる。

ディジュリドゥの音がすごい。ウィキペディアで調べてみると、白蟻に喰われたユーカリの樹木でつくり、吹き口に蜜蝋を塗り込め、全体を共鳴体にするらしい。アボリジニではおもにこれを祭祀にもちいたということだ。木でつくるから木管楽器かというとそうではなく、その吹奏形式から金管楽器に分類されるらしい。ジャズ楽器でいうならチューバのように野太い音がするが、それでも草木の枯淡が音色じたいにつよく印象される。

いや、この説明ではまだ手ぬるいだろう。管体に穴はなく、音程は吹き表されない。複雑な顫音、つまりは打楽器にもつうじる波動音で、ズドゥズドゥ、ズドゥズドゥズドゥ…と高速の呂律=律呂を発散、それで四方を強烈に震わせてゆく。分節が脱分節化してゆく経緯にトランス状態が発する。打楽器に似たこんな吹奏楽器など初めての経験だ。

それは「自然〔じねん〕」にすでに融即している草木的な律動を、大地をつかって増幅させ、世界原理のすべてが呂律=律呂だと覚醒させるような効果をもつ。The Jungle Rhythm Sectionの演奏は電気増幅されたそのGOMAのディジュリドゥと、ドラムス、パーカッション(金属打音)、パーカッション(ボンゴ)の三者が交合同調する、打撃音の大規模な地上振動ととれる。振動とは呼吸のことでもある。じじつディジュリドゥは、吹き口で唇を震わせることで演奏音を開始させるが、その光速的な持続では頬をふくらませ口腔に溜めた呼気では足りず、そこで循環呼吸がもちいられるらしい。複雑な吹奏技術が必要らしく、それを日本人のGOMAが会得し、アボリジニからも称賛されるのは奇蹟ともいうべき事柄だろう。

ディジュリドゥの演奏音には音程がないと書いたが、実際は唇のふるえによって日本の歌唱のコブシに似たような波をつくることができる。それとディジュリドゥの種類によってはトランペットのように管体に伸縮をつくれるものがあり、そのときは流動的で大規模なスラーも実現できる。

ところでパターン奏者ではなくインプロヴィゼーション奏者では、思考のうち最もつかわれるのが記憶だとおもう。一旦演奏された音型は記憶され、時間軸上で奏者はそれを展開してゆく。そのときには差異をかぎりなく創造する一方で、回帰がおこなわれたりもする。GOMAの演奏をみていると、反復と差異が一如となる、ドゥルーズ的な永劫回帰の刻々が渦巻いている強度に直面させられる。そのGOMAに記憶機能の甚大な失調が起こったのだ。

ディジュリドゥの音には音程がないのだから、記憶機能の減退・喪失はさほどの打撃にならないだろうとおもうのは誤りだ。たぶん脱分節化される寸前のリズム分節をGOMAは循環呼吸をフルにつかって差異展開している。それにリズムセクションが同調交合して、演奏全体は圧倒的に同一な時間でありながら刻々の差異を内包する融即性を湛えている。だから高次脳機能障害で記憶はおろか感情や思考まで磨滅し妻子との家庭運営にくらい支障をきたしただけでなく、演奏者としての力能と同一性を丸ごと奪われる根源的な危機をもGOMAが迎えたということになる。

過去の演奏や旅行、家族映像をみると、GOMAは身体鍛錬も怠らない、前向きで快活な男だった。自然体が身についてもいる。アボリジニ楽器と一体化することでアボリジニの世界観を身体全体に刻印した偉丈夫だとわかる。その彼が、演奏仲間など演奏の実際をすべて忘却したとき、最初におこなったのは絵画作成だった(それも娘の画材を借りての初めての行為だった)。画面に彼のなした画業が捉えられて衝撃が走る。彼はアボリジニ絵画そのものを描いたのだった。細密性、色彩と形象と反復のリズム、それによる装飾性とうねり、全体にわたる大地と宇宙の感覚…のちに事故後の自分は、もともと自分が演奏者ではなく画家だと錯覚していたと述懐するが、つまり演奏を忘れたときにまず彼に現れたのが自然〔じねん〕の呂律=律呂だったということになる。アボリジニの存在型式が彼のからだふかくに潜行していたのだ。

このからだそのもののもつ存在復元力がやがてディジュリドゥを手に取ったとき「記憶ではなくからだで」「自然に」吹奏をおこなえる自らを導いてゆく。脳の部分損傷で記憶、思考、感情などの活動が減摩されたとき、損傷部位の周囲が活動機能を代補する奇蹟が生じる場合のあることは知られているだろうが、GOMAでは、身体に浸潤していたリズム=宇宙的呂律が、脳の損傷を代補したということだろう。むろん再起までに厳しいリハビリもあっただろうが、再起の芯をなすリズムそのものの代補性が感涙的だった。

音楽従事者のみならず、詩を書く者、あるいはボクシングなどのスポーツにたずさわる者などにもわかるだろうが、「リズム的思考」は曖昧ながら確実に存在する。リズムの波動、往来、鼓動が、確実に世界の事象を捉え、しかもリズムが捉えた流れを馴化し、そこに時間と区別できない空間を現出し、それが創造する自らを、これまたリズムの一機能「産出」に向けて鼓舞励起するのだ。ということは、GOMAの再起は、身体そのものの「思考的」本質をその内実にしているとわかる。しかもそれは時間論にまで延長できるのだ。

もともとGOMAのディジュリドゥ演奏では脱分節化直前のリズムの細分的な「分節」が、差異創造の作用域だった点は前述した。ところがそれは、「時間」そのものの属性でもあって、ということは、時間は未来への視線を経なくても、それ自体で「希望」(と呼ぶべきもの)を孕んでいるとかんがえられる。「いま」から「いまの直後」への移行にすでにメシアが潜むとエルンスト・ブロッホならいうだろうし、「いま」でも「過去」でもそこに感知される時間の隙間がメシアの息吹に充填されているとベンヤミンなら口外したかっただろう。

おそらく本当の演奏とはそうした時間そのものの救抜性を存在化する特殊技能者の営為であって、その特殊技能者のなかにGOMAも列聖されていたのだ。悲観的にみれば、アルトーのような思考剥奪の晩年に向かうかのようなGOMAに、ニーチェ的な強度が発光する。それが、松江が前景にだした「現在の」GOMAの演奏で、その後景には「過去」が差異として息づいているのだから、松江もまたじつは身体の「思考的」本質によって、時間そのものを救抜したことになる。だからこの3Dドキュメンタリーは「トランス」であると同時に、「トランス=哲学」に上位分類されるのだ。

リズムは世界の本質として在る。それはドゥルーズ/ガタリがリトルネロ(ルフラン)を世界の本質に定位したのとおなじことだ。

これらぼくの書いていることは、ぼくが作品に触発されて思考したことで、松江が作品でおこなった事実提示は淡々としている。事故の事実のテロップ表示、演奏撮影の監督、GOMAの資料提供による彼の過去の召喚……その程度のものだ。ただし松江の思考力はそれらの提示「順序」の適確さに透徹している。しかもその提示を前景・後景の層に立体化して、脳そのものの構造へと画面(運動)を膚接させたときに、なにか「映画演出」におそろしいものを付与している。自分ではなにひとつ語らず、「配備」だけをし、当該対象から「世界」を引きだす――むろんこれが松江的ドキュメンタリーでの、叡智のいつもの流儀だということはいうまでもないだろう。

GOMAの日記文面によれば、松江からドキュメンタリーの企画を提示されたとき、過去の自分の映像の再見がおこなわれたという。それらはすべて記憶のない自分にとって、よそよそしい他者にしかすぎなかった。ところがそれが「自分といわれているもの」なのだ。その「過去の自分」は「現在の自分」を知らない。ところがそれこそが自己把握の本質だ。なぜなら「現在の自分」も「未来の自分」を知らないのだから。おそらくそうして自己という時間をつかみなおすことによって、「記憶が外見とともに当人の最大のアイデンティティだ」という妄執から、GOMAが離れることができたのだとおもう。GOMAのアイデンティティとは、身体そのものがもつ内在性、そしてそれを色彩化しているリズムで、それこそが「世界」に干渉する。つまりひとは外見や記憶で、世界に干渉するわけではないのだった。

ところで松江には、在日AV嬢にスポットをあてた『Identity』というドキュメンタリーがあった。あるいは『あんにょんキムチ』も『童貞をプロデュース。』も『ライブテープ』も『あんにょん由美香』もすべてアイデンティティにかかわるテーマを隠し持っていたと気づく。そうでなければ松江の諸作は都市そのもののアイデンティティにたいする質問性をもっていたはずだ。けれどもひとつの身体に潜航し、社会的にではなく(身体/時間)哲学的にアイデンティティをとらえきったのは、この『フラッシュバックメモリーズ3D』が初めてだろうとおもう。個人的には「身体」の根源を口腔から考察した『母型論』、臨死体験映像をあつかった『ハイ・イメージ論』、アボリジニとつうじる歴史の初源性を考察した『アフリカ的段階について』など吉本隆明の著作を最近再読していただけに、より『フラッシュバックメモリーズ3D』が切実なものとなった。

つけくわえるなら、紹介されるGOMAの日記文面には、2011年3月11日付のものがある。東日本大震災の日、リハビリから帰宅した彼は、保育園にいっている妻子に連絡がつけられなかった。それからの日々に、記憶障害におちいっている自分と震災の惨状をかさねあわせ、未来展望がまったく描けなくなったといった意味の文面をもしるす。存在的被災。ということは、偶然だが、高次脳機能障害に陥ったGOMAの身体が、東日本大震災と喩的関係をむすんだことになる。このとき本作が捉えた身体の「思考的な」本質=自然の呂律は、さらに実効的な意味をも伴ってくるともいえるだろう。

3Dによるからだの覚醒のために劇場で必見。ぼくも帰京のタイミングがあえば、そうするつもりだ。ここでぼくのしるしたことはすべて作品の補注にすぎない。「本文」は劇場での圧倒的な3Dのなかにこそ築かれている。
 
 

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2013年01月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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