さよなら大島渚
いまNHKの速報テロップでながれた。大島渚監督が逝去したと。覚悟していたこととはいえ、愕然としている。晩酌済で酩酊しているので以下は手短に書く。
ぼくが芸術系映画のみが好きだ、と学生時代、クラブの先輩から揶揄されたとき、最初の反対論拠が大島さんの映画だった。世界的なレヴェルでの「前衛」に極東から伍するときに使用された、日本的前衛(花田清輝など)の価値化がまず愛おしかった。それと東映任侠路線、小川プロ作品、日活ロマンポルノなどの攻勢にたいしてしめす煩悶が、ゴダールとの並走性自認とともに、愛おしかった。あるいは大島さんの「呼吸」はせっかちだとおもうが、せっかちさにたいして丁寧に語ろうという『少年』や『愛の亡霊』の内部葛藤が、ひいては田村孟など創造社の面々への、ひめられた慚愧が愛おしかった。
実際に二度、インタビューでお会いして、とくに年少者にたいする、「若年であればいかなる赦免も厭わない」侠気あふれる温情にゆさぶられ、同時に往年の蓬髪の波打ちや表情の女性性に、なにか神秘的なものに直面する畏怖をもかんじた。速さと聯想と対象の汲み取りが天才的に篤く、それは「やさしさ」と叡智の融合としかみえなかった。
大島さんの功績は、「そのままでは映画性にならないものに、〈瞬間的な映画発想〉を付与し、それらを映画性のなかで素早く救抜した」、即興性の連続した作品群にまずは挙げられる。それが「68年前後」に集中したのはいわば「世界的な運命」だった。そのことに歴史からもたらされる「鳥肌」を生ずるが、じつは映画性の即興的付与は、たとえば山本政志に、あるいはとくに最近では松江哲明が継承してもいる。作品価値ではなく公開価値がまずあったこれらの大島映画の類型こそが、ぼくがもっとも崇敬するものなのだった。
じつは、去年暮れ、中村勘三郎逝去の報の翌日、すでに大島さん逝去の「誤報」がネット上に流布した。そのとき旧知の編集者から、00年代前半、初の大島さん危篤の報を受け一旦は立ち上げられたXデイ出版企画を再燃しようともちかけられていた(そのときはひとの死を商売道具にするのをぼくが嫌い、企画がながれた)。でもこうして亡くなられたいまは、この中断した企画を完成させる侠気がぼくにはある。
期せずして、先週、北大の院生ゼミの講義材料が大島さんの『愛の亡霊』だった。大島諸作のなかでも一、二を争う愛着作だ。この作品の冒頭ちかくには「1895年」という年代テロップが出る。とうぜんリュミエール兄弟が映画興行をパリ、キュピシーヌ街で開始した「映画生誕の年」に照準が合わされている。このとき、車屋儀三郎(田村高廣)の引く人力車の車輪が映写機のリールや撮影カメラのマガジンのロールと喩的関係をむすぶのは当然として、大島映画に例外的に出来した宮島義勇撮影、岡本健一照明の、演劇的布置の完璧性ともいえる1ショット内の全体的「宇宙」が、映画性に斜行する理由は何かを、院生に問いただしていたのだった。解答は「部分化」、つまり「メトニミー=換喩」ということになるのだが、この説明にはかなりの字数が必要となるので、この緊急記事では割愛することにする。
ともあれ、この点もふくめ、編集者との約束から、大島渚追悼本に、長い追悼書下ろし原稿を書く春休みとなったことだけは確かだ。期せずして、昨日今日の東京は雪。いったいだれが、白地に「黒く」日の丸染めたアナキストの旗の翻った、『日本春歌考』のあれら画面をおもわずにいられるだろう。
おもいだす。大島さんは出会うと、本当に幸福感を「頭脳」と「肌」にあたえてくれるひとだった。あのひとの知性が、ぼくの偏屈をも民主的に汲んでくれたのだった。映画評論家として一本になるにあたり、そのことがいかに励みになったか。お礼を何度申し上げても足りない気がする。だからいまは心をこめて合掌