少年ほか ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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少年ほか

 
 
ミクシィで書いた、大島渚作品にかかわるマイミクへのコメントを、以下にペーストしておきます。



『KYOTO, MY MOTHER'S PLACE』は、ロラン・バルト『明るい部屋』にも似た、静謐な傑作です。「母の写真」が主題のひとつになる。写真を語ることが母を語ることになったバルトと、場所=京都を語ることが母を語ることとなった大島。渡月橋は以後、この作品を抜きに語ることができません。それとナレーションが大島さん自身で、そのことで画面個々が架橋されていました。橋の映画です。

『少年』は去年暮、北大の院ゼミでとりあげました。実際に雪の札幌に住んでみると、あの作品の北海道部分が、いかに雪をドキュメントしているかが身に沁みます。『少年』であの美少女が死んだとき、だれが悪いのか、という質問を院生・研究生にしました。渡辺文雄か、少年か、チビか(少年が自分の拳に、母から買ってもらった腕時計で自傷行為をし、渡辺文雄が誤解してその時計をほおりあげ、チビがそれを取りに行こうと走って、クルマがチビを避けて激突事故を起こす、という、でたらめな因果関係の一連)。

「神様がわるい」、という結論しかでない、というのがぼくの答でした。そのとき、当たり屋という、(身体を賭け金にしたという意味では売春にもつうじる)自己再帰的犯罪の環が断ち切られる。つまり世界の不可知性が、犯罪の可知性にたいし上位化されるのです。そうして少年は世界の構造を知る。そこから「正義」と「他者」の関係が無告の少年のなかで考察されるのです。むろん死んだ少女のうつくしい面影は、それでも少年を泣かさざるをえない。

『少年』の素晴らしさは、放浪家族の犯罪から反転して正義が語られるとき、そこに「リズム」への考察が相即してしまう点です。ゆっくりしたリズムを断ち切るように、一部のカッティングがリズミカルで、そこに魔的な性急さが、やはり大島映画的な符牒として出来する。とりわけ、補導逮捕→訊問→身柄移動のラスト。そこで大島たちは、律動が終わらないためには、作品の質問性が終わらないためには、どうすればいいのかを発見する。横に車窓風景の流れるそのうごきを、そのままフェイドアウトで黒味化してしまえば、作品終結の保証となる黒味もまた、永遠に横移動してゆくのではないかと。そうして一家の「全国行脚」が観客の体内に実質化されてゆく。そのように院ゼミでは語りました
 
  

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2013年01月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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