雑感
昨日は魚喃キリコ『南瓜とマヨネーズ』レポートの講評第一回め。さすがに道産子は、あの作品に描かれている下北沢、代々木上原、新宿、吉祥寺の光景がいかに実際に即して(ほとんど狂気じみた精確さで)転写されているか、わからなかったようだ。作者がそうする必要はただひとつ、それが自叙と抵触しているためだ。
魚喃キリコは「線」によって「世界」のひろがりを形成してゆく。輪郭線の問題はむずかしい。たとえばエルンスト・マッハは、輪郭線は実在と背景の光量差によって強調されている「視」の錯覚であって、それは実際には存在しない(認識だ)といっている。だから押井守がやがてそのアニメから輪郭線を排除したのも、世界の実勢にかなっている、ということになる。
魚喃キリコの「線」による還元は世界像への選択だ。事物のかたちをつたえる線をすべてもちこみ、けれどもその質感はたとえば影などで表現されない。質感は白いままの不可侵となる。ところが線は定規で描かれず、魚喃の身体性も転写している。それは滲んだ線のように微視的にはゆらいでいるのだ。「世界のように涙ぐんでいる」といってもいい。それが「記憶」時間と接触している。いっぽう事物の質感のなさは稀薄な自己意識とかかわっているのではないか。
微妙なゆらぎをわかちあうことで等質配分されているような、たとえばツチダの背中の線と、家具のかたちや建物外観をつたえる線は、それでも揮発速度がちがう。「存在」はその実体性ではなくその揮発度から伝達されてゆく。バブル崩壊以後よりはっきりしだした逆転。魚喃マンガの女たちはそうした不如意とやさしく溶解している。だから気配であり事後であって、実際は視覚に的中しないのだ。
「大好きな」ハギオと再会して、東京タワーで遊興したのち、ふたりで(たぶん歌舞伎町の)ラブホにゆくくだりとなる。宝島社版でも祥伝社版でも119頁のいちばん下のコマ。そこでは「渦中」から分泌された「事後」がえがかれている。学生はその「事後」から、最初、拒絶と不安に滞ったぎこちないキスがなされていって、それがディープキスに転じていった「渦中」を逆算できなかった。逆算による遡行的な読み。それが仕種、人体配置とともに魚喃マンガでの心情を把握する手がかりとなるが、119頁の最終コマのやりとりは、そのふたコマあと(120頁)では脱衣の状態でなされていたことも判明する。理解が事後的に到来することは、エドワード・ヤンの映画に似ている。
それでもひとりの学生が、電線の「線」を一切省略しないことで生じている61頁の視覚驚異(脅威)をレポートで論究してくれたことがうれしかった。少女マンガでは本当のところ、「可愛いもの」ではなく「気持わるいもの」が価値をつくるのだ。精確であることで生じている乱脈。この「乱脈」がベタの束となって情動的な「かたちの分岐」をつくるツチダの黒髪へと転位する(それは俯き震えることで生じる)。このとき顔が隠れたままであっても髪のしめすかたちの一瞬に情動がある。世界の一瞬は、それを本当に「転写」しようとすると、憂鬱によって捕捉される。ひとを狂わすことにもつながる。なぜなら「日常」は総体化できても「一瞬」はメドゥーサのアタマのように分岐蠕動し、収束させようとする感覚への反逆とたえずなるからだ。
では話をもどすと、魚喃の「線」は収束なのだろうか。かんがえるのは排中律という命題だ。Aと非Aを総合すればそれはかならず「全体」になる、という排中律は、たとえばせいちゃんとツチダの同棲空間ではたしかなようにおもわれる。そうしてツチダの外側に、せいちゃんと家具などでつくられる「親密にして非親密な」空間が対位される。ところがAの個別性を純化してゆくと、非AはAそのものを差し引いた全世界、全宇宙にまで茫漠と拡大してしまい、それは「認識」に、無限にかかわる眩暈や恐怖をもちこんでくる。
人物の輪郭線はむろん個別性の表示のためにあるが、それは無限世界と対立されてふるえ、揮発寸前となる。魚喃キリコの「線」、とりわけ人物の顔や身体の線が危ないほど抒情的な理由は、個別性の定立起因「排中律」が、実際は残酷な自明性だという点に由来していないか。ほんとうは読者は、この点にこそみずからを「代入」しているはずなのだ。それで下降指向、面食い、クリエイティヴィティのない「凡庸な」ツチダを、わがこととして主情化するのだとおもう。この弱さへの同調が、魚喃マンガの宗教的価値だ。だから彼女の画のしろさは「ひかっている」。
この『南瓜とマヨネーズ』の授業は四限だった。五限の題材は、エドワード・ヤンの『恐怖分子』。認知の「事後性」とともに、ヤンの映画の細部にも視覚脅威=驚異が散布されていて、自分としてはひとつなぎの授業のようだった。この連続性を体験できたのがひとりの院生とふたりの研究生だけだったというのが、もったいない気がする
魚喃キリコはじつは南瓜が甘ったるくて嫌いだが、南瓜サラダ(固く煮た南瓜をマヨネーズで和えたもの)ならいただける。あまさは別の種類のあまさと複合されると、それが幸せな味になる。まるで清濁併せ吞む浮世のようではないか。そうだ、この南瓜のマヨネーズサラダをタイトルにしよう、
云々
2013年01月24日 阿部嘉昭 URL 編集