マーク・ボランの「声」
昨日で全学授業「60-70年代のロックジャイアンツを聴く」の全講義が終了した。最終回はT・レックス(マーク・ボラン)。途中、マーク・ボランの「声」の特殊さをいおうとして、ふとロラン・バルトの「声のきめ」の話をした。
「声」は描写できない。それをかたる語彙がないのだ。ただしみずからの好悪は歴然と人の声にきざす。ということは、それをひとはエロス覚でとらえるしかない。
同時に声は「選別」だ。男声と女声はほぼ聴いた途端にその性別を判断できる(その中間にあるものも「いかがわしさ」として即座に判別できる)。同時に親しい者の声は、たとえば通りすがりに姿をみないままでも、そのひとの声と類別できる(似た声があったとしても)。ならば声はその者の個別性の極みというべきなのだろうが、上述したようにこれが記述可能性とは無縁なのだ。つまり個性はその芯に記述できない脱意味をかかえこんでいるということになる。
声には系譜がある。声は類似から類似へと聯想をとばす。しかも声にはエロキューション(口跡)がともなっていて、それも声と分離できない。たとえば好きなsの発音などというものがあったりする。それらが総合されて、たとえば「冷たさ/温かさ」などといった二項分類のほかに、「自己確信的な声」「手づくりの声」といった、対立項に置けない声の分野までもが叢生、これらが枝状に進展をのばすとき、類似聯想(アナロジー)がさらに強化されるといってもいい。声はたとえば「トラ化」や「クジラ化」といった動物性への生成すら、想像的判断に呼び込むこともある。
それでもいずれ、「声」はまさにその核心を記述できない。記述のできなさが絶対的であることが声の質なのだ。だからバルトは、ディスカウとパンゼラの自己にとっての差異を、エロスを導入した、まさに好悪で、「絶対的に」語るしかなかった。むろんことばは、記述不能性を刺青されて、脱コード化に向け身もだえをする(このことが音楽評論のすばらしさを逆説的に確立する)。
声をかたる前提とは以下のようなことだ。身も蓋もない絶対的好悪に、ある種の謙譲とやわらかさを、いかにも分析的に付与するしかない、態度(慎ましさ)の問題。バルトの文章はそれを体現している。この意味で「声のきめ」というテキストは倫理的というよりも倫理性なのだ。むろん「きめ=肌理」もまた、それを語るには語彙がない。なにしろそれは表面的な平滑に伏在している粒子、その分布頻度を要求する、実際は不可視性にまつわる概念なのだから。
ぼくはマーク・ボランの声が好きだ。ところがそれも断定と比喩でしか語れない。このとき断定に謙譲の質感をあたえるのは、単純に「断定の数」の多さだろう。それで以下、マーク・ボランの声を、いわば形容詞形で「記述」することにする。それはとうぜん、ある領域をたちあげるためのリスト(列記)ともなるだろう。
震動的。人工的。痙攣的。電気的。中性的。神経質。ヒステリック。フリルがついている。襞をもつバロック。壊れたラジオから漏れる音の遠さ。聴きとりにくい間接性。空間にたいし陰謀的。フリルが時間進展にたいして粉塵を巻き込む。その粉塵は金色か銀色。つまり原色的でない。色彩としてはぼやけた細部をもつ。だから脱同定的。
同時に自己愛性、自体性という、回避できない的中性までもつ。そのありのままの感じ、そのやるせなさ。知性と怠惰と乱倫の片鱗によって脱力をもたらす誘導性。発声そのものが自己を害する厭な感触。悪魔的とも天使的とも呼びたくない何か。中間性。意味以前の動物磁気。嗜眠性。むさぼり。脱穀機。粉末。ラメ。スパンコール。粒のこまかさ。水滴。強圧(直線)的な悪ではなく分布的な悪。それゆえの悪のあたらしい定立。あるいは自己/非自己/綜合による三位一体的鼎立。その鼎立性そのものの厚みのなさ。厚みのないのにゆがんでいること。
摩訶不思議。自分の末路を予見する者の悲鳴。それでも厚顔無恥で不敵な慢心。声に「眼」が入っているもの。声がどこかで眼瞬きしてみせる永遠。気づき。気づかせ。消えるもの。おとこ女。おんな男。声の胸毛、めだまに毛のはえる病気のような。不埒。悪徳。脱コードの位置にしか置けない声の美貌。こすれ(それ自体の進行の摩擦)。摩耗。減少するもの。霊感を起点にしたものから消えだす尻尾。そのかなしい余韻。シャウトではないのに結局は悲鳴に分類されるもの。皮一枚へだてた隣人。
――たとえばマーク・ボランの「声」とは、以上のような(つまりその列記の多さによって必然的に要約可能性からはなれてゆく)ものではないか。それは「声以上の声」という点では声の同定性をうしなっている。同時に「声以下の声」という点ではたんに嫌悪すべき動物性であって、そこでは同定性そのものの絶対が現れていた、というべきなのだ。
おわりにマーク・ボランの詩才をつたえるべく、配布プリントに入れたぼくの訳詞を一曲ぶんだけ下に貼っておきます。
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【スライダー】
ぼくはまったく理解できなかった
なにが風なのかを。
それは球形の愛情のようなものだろうか
ならばぼくは見たこともない
宇宙の海なら
それはぼくにとってむしろ女王蜂に似ていた
哀しいときには
くずれてゆくだけ
ぼくはくちづけたことなどなかった
クルマへなど
それはたんなる扉だから。
ぼくは以前いつも自分じしんを
大きくなるようにしていた
〔だから規律をしいる〕学校が奇怪だった
哀しいときには
くずれてゆくだけ
ぼくは鼻ひとつたりとも
釘で打ちつけたことなどない
そのようにしてしか庭園はしげらない
ぼくはまったく理解できなかった
風がどんなものだかを
それは球形の愛情のようなものだろうか
哀しいときは
くずれるだけ
気をつけろ
ぼくはくずれてゆく