いまおかしんじ・星の長い一日 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

いまおかしんじ・星の長い一日のページです。

いまおかしんじ・星の長い一日

 
 
「青春Hシリーズ」第27弾として公開される、いまおかしんじの『星の長い一日』が傑作だ。最近の動向をつづると、いまおかは山下敦弘監督『苦役列車』の脚本のあと、「ラブ・アンド・エロス・シネマ・コレクション」シリーズで『百日のセツナ・禁断の恋』の脚本・演出、榎本敏郎監督の『死んでもいいの・百年恋して』の脚本を手がけた。どちらもファンタジー。

『百日のセツナ』は海から生じた「なりたての」少女吸血鬼・由愛可奈を先輩吸血鬼の和田聡宏が訓育するが、曲折ありながらやがて双方が相愛を自覚する。ところが少女吸血鬼は百日以内にセックスすると消滅し、セックスの相手も死ぬ定めがある。由愛は「みずからの血統の消滅」のためにあえて和田とのセックスを所望、和田も愛のためにそれに応ずるクライマックスだった。それまでセックスシーンを禁欲されてきた由愛と和田との、嗚咽と法悦のいりまじった渚での長い交合シーンは、催涙性を喚起するが、いまおか演出の迫力は思想的に本気だった。大義のためではなく愛のために死を厭わないその死生観に、それまでのいまおか作品にないものをかんじた。

『死んでもいいの』は森下くるみが、夫の死後、時間がとまってしまい、50過ぎになっても老化していないという設定。やがて風俗バイト先のおねえちゃんに接吻されると黄泉への扉をあけることができ、そこで死んだころとまったく変わらない夫に会うことができるようになる。そのパラレルワールドでふたりがセックスを繰り返すうち、森下は精気を吸われ、現世にもどれなくなりそうな危機を迎える。

森下と亡夫と(いまは齢相応に老けた)下條アトムは、かつてはトリュフォー『突然炎のごとく』前半のような、幸福な友愛三角形を築いていたが、森下が夫をえらんだ過去がある。下條は森下に兆した死相におののき、みずからおねえちゃんのキスを得て、森下の亡夫に会い、もう森下と会わないよう懇願する。ところが亡夫に執着する森下は、現世のすべてを捨てても構わないと、一旦は亡夫とパラレルワールド内での遁走を図る。ここでも死が生を凌駕する価値転覆が、催涙性のうちに謳われる。結末は穏当に作品のファンタスティックな設定を「回収」したが、その「途中」を裏打ちするいまおか脚本の精神性が、やはりこれまでみたことのないものだった。それにしても榎本敏郎の演出は、ベテラン下條アトムに捧げた見せ場など平衡感覚が見事だった。

いずれにせよ、アジア的混沌のなかで「ボロボロになって」ただ生きているのがいまおか世界の住人で、いまおかの志向する時間性が「停滞」と、それを楽天的に亀裂させる「思い替え」だとすると、現世否定に催涙性をまぶした死への傾斜が意外に映る。自己抹消に、宗教性にとむ自己供犠の匂いまでまつわっているのだ。往年の瀬々敬久につづき、いまおかも遅れて宮沢賢治への宗旨替えを果たしたのかと愕いた。いまおかは単純でぶっきらぼうな「死の勝利」派のはずだった。

そのいまおかが15年前に書いた脚本にもとづいて撮ったのが、『星の長い一日』だ。タイトルに岡本喜八『日本のいちばん長い日』からの交響がある。「長い一日もの」というジャンルがあって、マーティン・スコセッシの『アフター・アワーズ』や、それを見事に換骨奪胎したようなサトウトシキのピンク作品(タイトルを失念した)、あるいは榎戸耕史の傑作『ふたりぼっち』や、ジョン・ヒューズの『大災難PTA』などがそれにあたる。

おまけにいまおかのこの新作では主人公の名前が「星」。大和屋竺-若松孝二の『処女ゲバゲバ』とおなじだ。なにか映画史的引用にとんだ作品ではないかと予感したが、蓋をあけてみると狂ったブニュエル、時間進展がぐにやぐにゃ伸縮するという意味ではサイケデリック美学につらぬかれたものだった。日本的サイケデリックは隔世遺伝的な発展を遂げて、清水崇の映画版『呪怨2』がその最高峰としんじていたが、いまおかの本作はそれとも双璧をなすのではないか。

作品はいまおからしい貧乏くささではじまる。貧相な容姿の荒井タカシが安マンションのベランダで身もだえしている。ベランダ内に構えるカメラ(撮影:佐久間栄一)の画角は狭く、撮られる場所と対象も殺風景で、開巻に要求されがちな高まりなど何ひとつない。ないままに、この作品の法則「尾籠」がさっそく適用される。身もだえが尿意をこらえてのものだったことは、ベランダに置かれていたゴミ袋から空きペットボトルをとりだしなかへ小用を足すその後で判明する。排尿する局部を映さないためのみに、構図設定とカッティングが細心化するナンセンス。この開巻の「ツカミのなさ」がそのままツカミになってしまう逆転は、往年のいまおか映画調だ。

脱臼とズレをかたどるサスペンスに注意がむかう。その貧乏マンションの住人、若い女が洗濯物をとりこみにベランダに出てくるのだった。荒井タカシは女に背を向けてしゃがみ気配を消そうとするが、隠れどころのないベランダでは姿が丸見えのはずだ。ところが彼女は気づかない。このとき荒井はたとえば懲罰でベランダに閉じ込められたのではないという事後理解が生じてくるが、では「なぜそこにいるのか」。

しかも女の住人の振舞から、「自分が欲望しない対象はみえない」という精神分析的な法則が導かれると、「みればその対象にひとは欲望するようになる」という逆元までもが予感されるようになる。そして実際そうなる。つまりこの冒頭のくだりで、作品は主題喚起のサスペンスと、説明を宙吊るサスペンスを二重にし、しかもそれを「ありあわせのぼろさ」で充填していることで脱臼まで導いている、という判断になる。

やがて荒井タカシは女のその部屋に空き巣に入ったところを住人と鉢合わせたのだとわかる。女は荒井がガラス扉をあけてなかに闖入してきても、荒井を欲望しないから荒井に気づかない。荒井は女が便所で尾籠なオリジナルソングを高らかに唄う間に、女の財布から札一枚を抜きとる。強奪せず、「全部」でもない点に、荒井の弱さ、貧乏くささ、慎ましさが透ける。ではなぜ彼はカネにそれほど困窮しているのか。作品に解答はない。

いきなりジャンプカット。よほど空腹だったとおぼしい荒井はコンビニで買ったおにぎりを、コンビニ前にしゃがみこんでむさぼる。それをペットボトルで流し込む。腹がくちくなると喫煙衝動がうごめきだすが、いまどき煙草を他人に所望しても応えてくれる親切などない。

これらのやりとりにたいして中心的に選択される構図は、バカ正直に、コンビニと隣のランドリーのあいだにいる荒井と建物にたいしてまっすぐ直角に向けられたものだ。たくまないカメラワークにアンフラマンスな「たくらみ」を上乗せすること。しかもやりとりと編集の呼吸に、初期山下敦弘のようなオフビートもない。「オフビートのないオフビート」とでもいうように、いまおかの作法がメタ化される。「落としのなさ」で、しょうもなさが貧乏たらしく持続してゆくのだ。

コンビニから藤崎エリナ扮する女性店員がでてきて、荒井が煙草を所望しても相手にされない。時間が徒過。退店したその藤崎が出てくる。煙草をこんどは荒井に渡し、荒井が旨そうに喫したのちは、自発的にさらに三本ほどを追加して渡す。そのかん、他人にふつういわないような内情をバラす。店長がいかに自分をセクハラするか(このときも尾籠なことばがほとばしる)、こんな店やめてやる、と息まき、そのあとは台風のようにすぎさる。

カメラの対象が藤崎になる(ブニュエル『自由の幻想』の手法)。女が自宅アパートに到着。玄関扉をあけた途端に、けれどもひそかに藤崎を尾けてきた(ここで『自由の幻想』の手法を離脱)荒井が女を後ろから抱え、口塞ぎして、「騒がないで」と気弱に懇願、やさしさにほだされたどころか可愛らしさに一目ぼれ、「セックスさせてください」と哀願にまでいたる。自暴自棄の気配など微塵もないまま親密をしめして藤崎は丁寧な応対でその欲望を受け入れ、いざそのベッドで双方裸身になって前戯がはじまると(荒井は藤崎のからだの「やわらかさ」と「それじたいの芳香」にうっとりする)、藤崎はとつぜん自分が生理中だとおもいだし、スキンをつけることを所望する。

荒井はスキンを手に入れようと藤崎のアパートを飛び出す。煙草銭のない彼が、藤崎にカネも借りずに飛び出したのだ。藤崎の勤務していたコンビニのカウンターで店長にスキンを差しだし、かならずあとで払うからといっても受け入れられない。それで一刻も早く藤崎のもとにもどるべき身なのに、またもや空き巣を敢行、今度はそこでスキンを見つけ出そうと非効率的なことをくわだてるのだった。

作品では論理性が脱臼したまま展開され、欲望がからまわりして困難だけが連接されてくる。「煙草をくれた」→「一目ぼれ」→「家に乱入」→「セックスへの合意」→「生理中」→「スキンがあればできる」→「スキンを買いにゆく」→「カネがない」→「コンビニでのスキン強奪に失敗」→「空き巣をくわだてる」→「とうぜんカネのように簡単にスキンは見つからないし、その家にないかもしれない」。生起した幸運を、幸運のままに運営できない荒井タカシの行動原理。それは幸運を遂行するためのコミュニケーション能力を欠いているというよりも、行動のすべてがあらかじめ脱論理に支配されているためではないか。

「欲望の対象」は横ズレする。たとえばそれは藤崎エリナからスキンそのものへと変化するのだ。結果、挿話だけが連接され、その挿話の外側に「欲望にかかわる精神分析」が笑劇として膨らむことになる。これは生起した食欲が成就されず挫折連鎖の喜劇となるブニュエル『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』の変奏だし、欲望の対象が女性にも、いわばそこへの伝達道具(過程)にも変化するということが、欲望の本質的な不在を解き明かしているのならば、それはラカンを笑いのめしたブニュエル『欲望のあいまいな対象』の転換でもあるだろう。

ズレをはらんで挿話がつづき、欲望はいよいよ曖昧であるがゆえ遡行的な不在を言渡されてゆくかのようだ。「ズレ」ならこうなる。荒井の空き巣は、一旦は「闖入そのものを視認されなかった」。つぎに藤崎の玄関から押しかけたときには、とうぜんあるはずの犯罪性を相手の天使性により、拍子ぬけするほど不問にされた。ところが今度の男の住人は、荒井同様の臆病者で、「同類は同類を視認する」という法則が働く。しかも臆病ゆえにもののはずみで住人は荒井の腹に不可抗力で庖丁を突きたててしまう(行動原理が脱臼的なのは荒井同様で、床にのたうちまわる荒井を眼下に、正当防衛も主張できるはずなのに「自宅から」逃げだすという脱臼の付加をおこなう)。

もともと家宅侵入などは低確率のはずなのに、そこへ佐藤宏と水井真希がさらに闖入する。ふたりは荒井の流血に興奮し、救急連絡の懇願もきかずにセックスをはじめ、その興奮をアブったシャブの吸引で倍加させる(藤崎から得た煙草のけむりは、ここで麻薬烟にズレる)。やがてオルギアとなる。水井が荒井を口淫しそれにまたがるのは手順かもしれないが、「ズレ」が法則なので、男の佐藤までもが荒井を口淫し、荒井に顔面発射し、しかもその菊座まで凌辱する逸脱がよびだされてゆく。

多型的な欲望の前面化(全面化)。性愛セリーが複雑にもつれだしその脱倫理性と脱論理性に戦慄しながらも、庖丁を腹から抜かれて出血がより激しくなり死の色も濃くなってきた荒井にたいし、性差を超越した凌辱が延々つづく。観ている側にもズレが生じる。選択実現されている演技が正当であるために「笑ってしまう」のだ。それは画面を構成する人物たちの面相にも負っている。一言でそれぞれを代表させてみよう。荒井=貧相。佐藤=悪相。水井=狂相。映しだしてはならないものが反価値として画面に充満した結果、ドラマ同様に反転が生じ、痛さは痒さになり、悲惨と凄惨が崇高になるのだった。

この佐藤-水井のカップルは、いわば「瀕死のときには死を回避せず、むしろヤッてヤッてヤリまくることで浄土を感覚すべきだ」とでもいった哲学を体現していて(そう、ここでいまおか的主題「死の優位」が顔を覗かせる)、実際、作品の終幕で彼らは超常的な力をあたえられた、いわば天使性だったことまでが事後証明される。彼らへの規定も「ズレ」を運動するのだ。ところが意味的に生じている「崇高への媒介」=「天使性」は、とうぜんいまおか映画ではアジア的な醜貌を呈している。それで水井をなんとか弁天と呼ぶなら、佐藤をたとえば大福とでも呼ぶしかなくなる。つまり彼らはそれ自身が複数で、この複数性がそのままアジア性だった。これが、いまおかのこれまでのフィルモグラフィの白眉部分にある特質だろう。

その後は、荒井タカシまでがアブったシャブを吸引させられ、のたうつほどの痛みを誤魔化され、励起させられ、妄想に駆り立てられる(結果、映画は「欲望」を実現する魔器のように、荒井と藤崎エリナの交合シーンを召喚し、それを夢オチに意地悪にも転落させるバロック的に褶曲をかたどってゆく)。ラカンではじまった欲望理論が、ズレを考察するドゥルーズの理論にさえズレる気色だ。

そのなかで「痛さ→痒さ→擽ったさ」という笑いにかかわる「永劫回帰」が起こる。この展開の無限は取り立てた撮影がなされていないのに、しかもあからさまな「反復」なのに、ひとつも弛緩することがない。荒井タカシがシャブで発奮するたびに、不道徳な励起が生じ、それが「リトルネロ」ともなる。死の「輪廻」がまわっているのだ。そこでは荒井タカシも水井真希も佐藤宏も、それぞれが「複数」で、前言したようにそれがこのサド的=西欧的オルギアに、「どうしようもないアジア」を出来させてくる。この感覚の「ズレ」が、時間が自在に伸縮される点とともにサイケデリック=接合異常=界面異常なのだった。すごい、というしかない。

車輪となった展開は、荒井がスキンを盗むために空き巣の家に入った家の持ち主の男(つまり庖丁で荒井の腹を刺した男)が、荒井が冒頭にカネに盗むために空き巣に入った女と出会い(ふたりは知己だった)、セックスすることで、さらに回転状オルギアの外側に、車輪の回転をつくりあげる。彼らもアジア的複数性、あえていうなら七福神の成員だった。あるいは荒井が終始おもいつづける藤崎エリナも、幻想の源泉として七福神の成員だったといえる。この映画がとりあえずは輪状の陰謀、しかもそれが光輝をともなうズレであることはこれで伝わっただろう。

『星の長い一日』の脚本が15年前にいまおかによって書かれていたことは前言した(おそらくは国映に提出されたが、過激すぎて没企画になったのではないか)。それが「青春H」シリーズで復活した。これがいまの日本映画の一面を象徴している。

15年前といえば99年。そう、いまおかの傑作『痴漢列車・弁天のお尻』(=『デメキング』)の98年、その翌年だった。あの作品では実際に七福神が揃い、アジア的複数性が明示された。ところが複数性が革命に向かわず、潜勢となる点に、明示から何かがいつもズレる、いまおか映画的な機微がある。同様に、この『星の長い一日』でもやはりオルギアがなにか不可視のものにズレている。それでもいまおかは「聖性」をかたるのを照れゆえに厭うのではないか。むろん主人公「星」の名が伊達に付いていないことは確かだ。

乱交と出血によって瀕死になった「星」=荒井タカシに最終的にどんな運命が待ち構えているかは劇場でぜひ確認を。二月二日より一週間、ポレポレ東中野にてレイトショー。
 
 

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2013年01月28日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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