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ドラマ演技 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

ドラマ演技のページです。

ドラマ演技

 
 
昨日は夜中に起きて、録画済ドラマを色いろみていた。

『最高の離婚』は第三回、第四回。前者では瑛太にたいし真木よう子がなぜ愛想を尽かしたかのエピソードを、眼前にいる瑛太が絶望の張本人であると特定せず三人の面前で語る。事情は、瑛太が、さらに真木の知らないことだが尾野が知っている。綾野剛は自分の知らない者の挿話として聞いている。八戸、父恋、ジュディマリ、鮫、ジョーズ…発語にある具体性が心を打つ。

後者では尾野真千子が、瑛太の鉢植え(盆栽)や書籍をひっくり返しながら、いかに共感に組み替えようとしても瑛太の日々の言動の質が自分を絶望に追いやったかを声を張り上げて告げる。

真木よう子の静謐な語り、尾野真千子の全身をもちいた情動、どちらも圧巻だったが、スイッチング的編集で瑛太など反応する表情が挿入されていたとしても、真木、尾野への撮影が長回しだったことは明らか。俳優演技のすべてを引き出そうとする演出の気魄をかんじた。長科白は橋田寿賀子ドラマとは質がちがっているし(実際は「長いけれども」圧縮されている)、映画のように無言の身体にたいしてではなく、語る身体にたいして長回しがおこなわれている。

オルタナティヴな日本映画が、俳優の身体を無名性のまま存在化して息を呑ませるのにたいし、TVドラマのほうは、有名性をもつ俳優身体を、「演技」の付与によって増幅している。俳優にとって演技台帳に貯えをもたらすのは、じつはTV演出のほうかもしれない。日本のメジャー映画はそうした富をあまりTVドラマから奪っていない。だから武井咲の「意味」を去年の日本映画が組み替えたことには大きな意義もあった。

『泣くな、はらちゃん』長瀬智也の、マンガキャラを「活人画」したような、からだの抜群な造形化と捌き、『dinner』倉科カナの、眼のうるみの、異常ともいえる抒情性。これらはじつは邦画メジャーではお目にかかれないものかもしれない。日本映画の価値は俳優の単独性の発見だが、TVドラマの価値は俳優の連続性の承認なのではないか。このふたつはじつは対照をえがいている。
 
 

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2013年02月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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