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ポップスとは何か ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

ポップスとは何かのページです。

ポップスとは何か



マイミクkozくんが、
三村京子の音楽の魅力を禁欲僧侶のように伝道する(笑)、
通称「kozブログ」(「三村京子サイト内」)で、
三村京子の曲を媒介に
ポップチューンの何たるかを探究しようとして
いま実は四苦八苦している。
僕は最近の書き込みで助け舟も出したのだけど、
それすらフラッシュアイデアの叩きつけで
却ってkozくんを混乱させたかもしれない。
――ということで、以下に問題を整理する必要を感じた。



(1) まずビートルズ以前のポップス(50年代中心)。
単純に平易で解読可能な楽曲に
平易で解読可能な楽曲が乗るという例が確かに多い。
ゴフィン=キングの楽曲が、その好例だろう。
そこでは崇高な俗情が崇高な俗情と結託して
最も素晴らしい音楽体験の型をつくる。
ただし、ガーシュイン・ミュージックなどは
クラシック、ジャズの楽理を満身に集め、煌びやか極まりない。
日本では中村八大などをおもい浮かべるべきかもしれない。



(2)むろん、ポップスは
ルーツ(ジャンル)ミュージックの連関のなかにこそ出現する。
そこで機能するのが当然ジャンル法則だ。
そこからまず「聴いた記憶がある」という認知が生ずる。
ただ、多くのカントリーミュージックがそうであるように、
それで一聴して全体が把握されてはポップスではない。
記憶不能の部分(不整合部分)が反復的聴取を促がすような
渇望状態が組織されなければならない、ということだ。
聴いたことがあるのに憶えきらない、という渇望が。
ということは、ポップスは既聴感と未聴感の
「まだら」の状態を生きている必要がある、ともいえる。
これは「歌詞」についても同様だろう。



(3)そして60年代黄金期ロックがポップスの概念を更に変えた。
フランク・ザッパがポップだという感銘がありうるのだ。
音そのものの可食性も当然そこに貢献しているが、
楽曲発想に奇矯さの滲むこと、
あるいは曲が細分されて編集されてくる目まぐるしさには
異質な細部に「内部分割」されることで
細部同士がスパークを繰り返し、
その電撃性が美学的な憧憬に変ずる、という別局面も生じている。
ここまできて、「掴みえないもの」というポップスの属性が
より強化された、といえるだろう。



(4)この摩訶不思議なものが皮膚に密着して、
それが逼塞とならずに(変態的)快感となる例も
黄金期ロックは更に紡ぎだした。
たとえばマーク・ボランのへんちくりんな声と
ファズのかかったブギー・ギターの配合は
もう音の波形の科学分析をしても、
ポップスが何かの結論を導かないのではないか。
それでもそれを誰もがポップだと感じた。
ここではキッチュ、ソンタグのいう「キャンプ」などに通じる、
美学の変貌がむしろ語られなければならないだろう。
「不快の快」という概念を導入してもいい。

ビーフハートの音楽もまたこの領域を上り詰めていった。
ボランは奇矯だが愛される歌詞を書いた。
いっぽうビーフハートは奇矯オンリーの歌詞で通した。



(5)ただし、(3)(4)だけではポップスは変型を繰り返し、
次第に悪い方向にインフレ化してゆくだろう。
レジデンツ、ペール・ユビュ・・・
アシッド・フォークを棚上げするなら
一部ユーロ・ニューウェイヴが「ネオ・フォーク」の嚆矢だった。
それは逼塞する商業ポップスと前衛ポップスの「隙間」に
清涼剤として一見、入り込んできた。
フォークのみならず、ボサノバやシャンソンのルーツを
まとっている――そのように認知された場合もあるだろう。

ところが、それらこそが「同定」できない。
標的にしようにも元々「自体性」を欠いていたのだった。
歌/演奏の冷たい機能性が、
実は情念レベルで音楽の正体を隠している。
僕がおもいうかべているのは、
絶頂期コクトー・ツインズやアイソレーション・ウォードなど。
それが、端倪すべかざる「柔らかみ」を伴って
ブラックボックス・レコーダーの1stなどにもつながってゆく。
ここでのポップスは、くっきりした輪郭ゆえに
把握不能、とでもいった逆説を演じることになる。

いずれにせよ、(2)-(5)のポップスの要件はクール/ホットは別に
総じていえば「狂おしさ」にある、ということになるだろう。



「偉大な」小室哲哉はその歌詞偏差値の低さを度外視するとして、
サビメロから曲を開始することにより、
(2) の既聴感と未聴感の「まだら」を実現し、
それが複数メロの融合であることで
細部スパークの(3)も組み入れた。
(5)の特徴、ユーロビートは密輸入的に使用したものの
ヒットチャート主義に囚われていたため
曲・演奏から同定性を奪取するまでに至らなかった。
その意味で資質的に同定性の危うい華原朋美が
小室音楽のパフォーマーとしてはベスト、ということになるだろう。
トモちゃんには(4)の魅惑もちょっと感じる(笑)。

「フォーク」から出立した三村京子はどうか。
(2)(3)は現在つくりだす楽曲にあらかじめ備わっている。
(4)の気味悪い快感をもたらしているのがその独自の地声だろう。
三村さんの声は不安定で弱く、弱いがゆえに気持ち悪く、
気持ち悪いがゆえに快楽的に響くのだ(笑)。
それでアナーキーなバカっぽさにも行き着く(笑)。
――ってトンでもない言い方をしているだろうか(笑)。

(5)の同定不能性がそこに関わってもいる。これはキャラの問題。
凄みが効きながら、ヘナヘナするように「弱い」三村さんに対し、
誰もが遠近感を形成できないだろう。
同定不能性はむろん彼女の楽曲にもある。
たとえば彼女はフォーク発想で始まったかとみえる曲に
ロック的な不思議な響きのある(これが本当の記憶誘導要素となる)
Jポップ的な代用コードを引き入れてしまう。
彼女自身が(自分の)フォーク性を蹂躙しているのだ(笑)。
そうして「見えないもの」が彼女の音楽に加算される。
つまり、「自らの処女性を犯す指」とでもいったものが。
「女子」が彼女に好意をもつ真相はここにあるのではないか。
フォークなのに、パンキッシュだ、と。

僕は、この同定不能性に着目して、
彼女の音楽に歌詞を提供してきたつもりだし、
あるいは自分で曲もつくった場合は
転調を用いることで同定性をゆるがせたり、
既存音楽を一瞬貼り付けることで驚愕を盛ったつもりでいる。

というようなヒントで、kozくん、
三村音楽のどこが具体的にポップなのか、
その考察に行きつけるかな?



ここからは三村さんの曲を例示せずに、
ジョン・レノンを例示してみるか。
俎上に乗せるのは
『ホワイト・アルバム』収録、「アイム・ソー・タイアド」。

Aメロのコード進行はGで開始したとなると大まかにこうなる。
《G→G♭→C→D7/G→Em→Am→D/G→G♭→E→Cm》
コードが半音下がる出だしが規格外れだし
(三村曲にもこのパターンが数多くある)、
これがビートルズコードの真骨頂なのだが
定番のコード進行にたいし
マイナー/メジャーのコード配分もズレている。
つまり(5)と似た感じで既に同定性が危ういのだった。

ただし、曲は20-30年代ポップスに規範をもつのでは、と感じ、
聴き手はルーツポップスの記憶強迫にも翻弄されることになる。
そうして、上記(2)の要件も満たされる。

歌メロ自体は、
『トランスフォーマー』時点のルー・リードがつくりそうな
ダンディなエレガンスメロだ。
それをジョンは、ダンディズム50%、掠れた囁き50%といった
抜群の配合で唄う。
その後者によって、「tired」の語の響きが、語のままに
「疲弊」として聴き手をくるむことになる。
その「疲弊」にイカれるのだから歌唱のもたらす作用は倒錯的だ。
こうして上記(4)の要件も満たされることになる。

むろんこの曲には周知のようにBメロがある。
このBメロでガテン的なロックへと曲は突然変貌する。
主調音が同じだとはいえ、合わない細部のキメラ合体。
こうして細部の軋みといった(3)の要件も一挙に埋められる。
G→Am→C→Gと、フレットを上がってゆく単純コード。
その上昇によってジョンのシャウトが割れだし、
最後は圧倒的な「ロック」が炸裂してしまう。
ここでAメロの一切が突き破られた恰好となる。
またも、ポップ要件(5)を体現すべく同定性が崩壊したのだ。
しかもこのシャウト自体には(4)のような
歪んだ魅惑もつきまとっている。

総じていうなら、「アイム・ソー・タイアド」は
(2) -(5)のポップ要件を展開のなかに不整合に刻印することで
ポップスそのものを吟味するメタポップスだといえる。
このメタ性は一見本能的にみえる三村楽曲にもあるだろう。

(ちなみにいうと、ジョンが同定性を最良の状態で崩壊させるのは
実は「♯9ドリーム」のような複雑な楽曲ではない。
要素が足りないゆえに同定性が崩壊した奇妙な楽曲があるのだった。
三村さんがkozブログで褒めた、
「ホールド・オン・ジョン」などがそうだが、
僕にはたとえば「もっと全く足りない」、
「マイ・マミーズ・デッド」にすらポップを感じてしまう)



むろんジョンの表現力はロック史上随一だ。
ファジー三村(「不思議」三村)をジョンの傍らに置くだけで
たとえばアポロンが希臘神話から飛び出して
猛全と怒りだすだろう(笑)。おいコラコラコラ!

まあ僕は、ジョンの楽曲にたいして詳述を繰り返した。
いってみれば、その特徴は「反転的」だということ。
これを僕は三村さんの歌詞でも、ある程度表現したつもりだ。

そこらへんの詳しい分析は
こののちkozブログで展開されてゆくことだろう。
そう、kozくんは三村さんの曲と歌詞が
どのように順を追って「展開」し、
耳朶を打つかをまず分析するといい。
このとき「曲の自体性」を超える別次元の何かが
メタ的に、パフォーマンスの上方を模様化するだろう。
アレンジはこの部分も補強しなければならない。

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2007年06月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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