岸辺出し
金石稔(綾子玖哉)さん主催、北海道・北見拠点の詩誌「阿吽」へ、今朝、詩を一篇つくった。半日熟成して、さっきすこしととのえた。あすにはメールできるだろう。「一篇で、ただし長さは自由」という注文だったので、いつもは五聯でおえる二行聯連続詩を、三十三聯書いてみた。(33×2)+(33-1)、総計九十八行の比較的長い詩をしあげたことになる。
このごろはみじかい詩ばかりをつくっているので、ながさになるためには身体の転調が要る。とうぜん一行をかるくして推進力をだした。樹木の林立を草原にするかんじ。二行聯五つの詩篇では、いわば起承転結的なつつみを全体でなして、その「結」をかるくほどくとよい、とは発見している。となると、長さにむかうためには、物語り=魅〔もの〕騙りのゆびをなして、書かないが「そしてet」で連接してゆく換喩意識を、さらにたかめてゆけばいいとおもった。
換喩表現にある、「隣接域」からの語の取りだしは、詩のばあい、自分のおもう隣接が通常の時空的隣接とちがうという、違和表明となる。ところが二行聯詩では聯間行空白がおそろしい頻度で規則的にまいこんで、隣接時空をさらに切断する。すると映画でいうジャンプカットの連続となる。
それでは詩は修辞実験の並列になって、おもいがつながらない。このとき接合をはたすのが語調=音韻と、「書き」にまつわる自己法則、さらには物語的なもの、ということになるだろう。書いてみておもった、やはり物語か、と。
いつもながらのことだが、たいした主題はない。文法破壊と瞬時の哲学提示と音韻だけを書いたといってもいい。それでも長さに読み手が倦まないために、路上の交渉によって性愛が成立していったという架空の物語をもちいた。意識したのはレナード・コーエンの「チェルシー・ホテル#2」。そこに札幌の夜の空気をいれた(深更へとのびた昨日の院試採点作業ののち、タクシーの車窓からかんじたものだ)。タイトルは「岸辺出し」。
書いたものはたぶん永遠に詩集には帰属しない詩篇だ。こういう詩を書くと、疲弊がきわまり、同一形式の連作ができないので。
多くの詩はながすぎるとおもう。圧縮せよ、ということではない。それでは暗喩詩が復活してしまう。むしろこうかんがえる--みじかさ、ちいささ、すくなさの表情が、そのまま詩なのでないか。ふだんそうおもっているが、からだをかためないために長い詩篇づくりを実験してみた。それで現れたのは、「長いのに、すくない」「それでも物語の走行距離は、身体を軸にすればながく、それでもそのことが目立たない」という感覚だった。