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昨日は ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

昨日はのページです。

昨日は



昨日は体調不良、というか集中力不良。理由はいくつか自覚している。PC遠隔操作事件の容疑者逮捕につきワイドショーをハシゴしてしまったこと、連日の疲れ、自分の書いた詩にあたってしまったこと。

ながく、すくなく書くと、どうしてか書いたことのすきまが気になって、読みなおしたくなる。こうしるすと自己愛みたいだが、むしろ自分のこれからのくずれが、すきまにすがたをぼやかしてはいないかと、怖れにみいられたように書きものにまいもどってしまうのだ。なにもみえない。あるいはほとんどみえない。この感覚はなにかに似ているはずと記憶をさぐったら、デュラスの『死の病い』をおもいだした。そうか書いたのはレナード・コーエンではなく、デュラスだったのか。性愛は架空でも、書けばあぶない。

朦朧詩なのだが、詩篇のいちばん肝腎なくだりに、読み手をみちびく像がたりないと自己分析する。それで二行を書き足して、綾子玖哉さんに添付メールをしなおした。トータル101行になった。綾子さんからお礼メール。『みんなを、屋根に。』へのうれしい感想もあわせて。

詩篇を書き足すと、そこが気づかないまま重複になってしまうばあいがある。なにか心理上の罠といえる。「墓穴を掘る」の成語に似ている。そう知っているので、注意力をといだ。たった二行なのに。こういう作業が昨日はなぜか困憊をよんだ。

はやく大島映画の評論にもどりたい。『日本の夜と霧』論をしあげれば、既発表の「メモ」を精密化し、そのあとは68年前後の即興性のつよい連作的集団創作群にまつわる書下ろし、それから総論(これらはネット公表しない)へとすすんで、これまた発表済の大島にまつわる文章(ただしうちひとつは『キョート、マイ・マザーズ・プレイス』についての未発表講義草稿)を抱き合わせて全体が完成となる。

大島渚を書くことは神経をつかう。とりわけ既存の大島論、大島本(そのなかには大島さん自身の本や語りも目白押しにある)と論旨重複を避けたいからだ。つよく意識するのはやはり四方田犬彦さんの『大島渚と日本』。

映画に換喩論を導入するのが、いま映画研究の趨勢になりつつあるが、大島映画は暗喩映画で、しかもそれが「解けない暗喩」の電撃力をもつ点が彼らの独創だった。暗喩が文学的なのにたいし、「解けない暗喩」が脱文学的だという点はすでに書いた。

もうひとつ、大島映画の細部に亀裂を走らせる概念があるとすれば、それはやはりドゥルーズ(『シネマ』ではない)からもちだすことのできる、動物性の生成かもしれない。大島では画面展開が、あるいは俳優が動物化したときに、ぞっとするような運動線が生起する。このことはまだ誰も書いていないだろう。それを書下ろし部分で書きたくてウズウズしている。

あるいは大島渚の中心的な感情とは何だったかというもんだいがある。ひとは彼の立居振舞に幻惑されてそれを「憤怒」というだろうが、ぼくは悲哀だとおもう。それに、数学的な無感情がとりまいていたのが、彼の代替不能な個性だった。そこに「美」にたいする警戒心がくわわる。それがあって、彼は周囲とともにみずからを複数化させていったのだ。自作を信じることと信じないことのあいだには、危険な葛藤もあった。

「悲哀の調律」といったのは往年の中沢新一だった。感情になにか基本的なチューニングをおこなうときには、創作では悲哀が選択されてしかるべきだということ。とくにいまは、そのように創作原理が解かれるべきだとおもう。むろん評論は研究分析ではたりない。対象にわけいって、えられた創作原理によってみずからを再組織し、それを評論の受け手に反射させなくてはなんの意味もない。そこでふとおもうのは、詩作もまた書かれたもののうえに創作原理をむきだしにしている、あぶない二重性だということだ。
 
 

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2013年02月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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