小島数子・大辻隆弘
小島数子さんは『等身境』が思潮社から刊行されているのをのぞけば、他の詩集が私家版刊行なので、その全体像を把握できるのは、詩集の恵贈をうけた、かぎられた人たちだけかもしれない。それでも発行所やわずかな地名で小島さんの生活地を類推できるていどしか個人情報がない。峻厳に潔く、ただフレーズのみがあって、「詩によって私性を遮断する」ことで、ぎゃくに詩の内在性にむけ読者の興味をひらく、書き手のポジションが終始一貫している。
しかもそのポジションは複合的だ。まずは換喩性がたかい。哲学的な思考を詩のフレーズに変幻できるたしかな技術ももつ。難解かというと柔らかい。そのなかで女性性が生成される。もっというと詩の女性性とはなにかを詩の渦中で、したがってスローガンではなく、かたりかける。むろん女性性に、自己愛的に淫することがない。それでも植物を中心にした自然が前面化され、全体の感触には寂寥感がつきまとう。そんなありようのなかで、ちいさな修辞の謎が、読後感に結晶のようにのこされる。全体像をそのなかから再編成するのは容易ではない。
その小島さんが、ふらんす堂から(つまり書店で入手できるかたちで)今年一月、新詩集『エンドルフィン』を上梓した。「エンドルフィン」は昂奮をつかさどる脳内(麻薬)物質だが、もしかすると「ドルフィン」(イルカ)の一種かもしれない。その題名のイメージによって、詩集ぜんたいも従来よりもはなやかにときほぐれているように、一読おもった。精緻に分析する時間の余裕がないので、小島さんらしい、しかも同時に従前とは変化のかんじられるフレーズを、詩篇名を省略していくつか抜いておこう。たぶんそれだけで全体のすばらしさがつうじるはずだ。
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豆が出ていった後の莢でいいから
そこに納まりたいと思う、
鞘を失くしてしまった
焦りの刃物が光るときや、
悔やむことにさえ
拙さがつきまとうときがある。
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どこか根元に
弓が隠されているような
矢車菊の花畑を、
心が通い合わない人といっしょに、
いつだったか、
つらい気持で歩いたことがあった。
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渡らせる者のいる、
橋脚や橋桁のような躰と
橋板のような心になることが、
切実な望み。
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ますます小さなものにしつつある地球。
人の力の蔓草は、
今が一番愉しい時代だから
邪魔しないでほしいとでも
思っているように、
地球を覆う。
小さなものにすることは、
磨きをかけることになっているのだろうか。
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カボチャを切り分けるとき、
包丁に入れる力は黄色くなる。
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去年、畏友から小島さんの私家版詩集をひととおりもらった。「阿部さんがもっているべきです」といわれて。『現の見る夢』『因果証明』『暗闇座のひかり』『標的の未知に狙われて』『明るむ石の糸』。即座にとおして読んで、ふかい感銘をうけた。それぞれの簡単な詩集評をフェイスブックに出す、と宣言した気もするのだが、日々にまぎれてしまった。いつか、この計画は実現しよう。
大辻隆弘さんから第一評論集『子規への溯行』の恵贈をうけた。96年刊、大辻さん35歳時。「若書き」と謙遜なさるが、文献の精査力、論の構成力、論争にたいする背筋、それに短歌の「私性」と「修辞」について考察した諸論文は、当時の歌壇にたいし活性をうながす真摯な角度を継続している。おこがましい言い方で恐縮だが、94年、36歳で第一著作『北野武vsビートたけし』を出したぼくは映画にたいしてだったが、立ち位置に共通するものをかんじる。世代もちかいのだが、資質のほうがもっとちかいのではないか。
一点だけ。集中の佐藤佐太郎論には震撼するほどうごかされた。佐太郎『帰潮』中の一首、
かたじけなく一夜〔ひとよ〕やどれば折々にかうべをあげて潮〔しほ〕の音〔おと〕きこゆ
はこびのなにかが折れ曲がっていて、ところがその屈折から情感やら情景やら身体やらがつたわってくる。大辻さんはこれを丁寧にわかりやすく解析する。全体をパート分けして、主格が最後に移動していると説く。読みの予想がはずされるちいさな衝撃を繊細に汲み取る。なにがあったのか。ふたつの「助詞」があるべき位置をたがいズレて嵌入しなおされていると大辻さんは見抜く。しかもそれは「文体」の問題ではない。えがくべきことにちかづくために選択されたズレだという。その移動やズレに似たものとして、省略ととらえられるものもある。大辻さんがあげたもののなかから一首。《島のごと見えし葦むらに近づきて葦ふく風は寂しくもあるか》。
こうした文体の不安定さのきわみで、自己離脱、自己消去などがさらに付帯されてゆく。不学なぼくは、佐太郎に以下のように恐ろしい歌があるとは知らなかった。ちょっと葛原妙子のある種の歌につうじる衝撃だ。
うつしみの人皆さむき冬の夜の霧うごかして吾があゆみ居〔ゐ〕る
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以下はぼくの用語で。
換喩は単位化されてながれに置かれる。ながれのほうが先験的だ。だから換喩は相互に頭が尾を食むかたちで、たがいの接続をねがう。そのとき「葦」のように同語がちらりとみえたりするが、それらはながれにのまれる。そのうちに頭と尾との接続がきれて、べつの主格がうかびあがったり、主体の首が宙にはねあがって、ながれそのものを見下ろしたりする。恐怖の光景。けれどもそれが恐怖になるのは、小説のような、長さに恵まれた媒体においてではない。三十一音の矮小な詩型においてだ。たったこれだけの音数に錯視にむけた罠がしこまれ、しかもそのズレや移動や省略や遊離や省略そのものが、恐怖以上の魅惑になる、ということだ。そう、こうした短詩型の富は、詩作にむけて簒奪するしかない。大辻さんが掲げた佐太郎の歌からふっと類推した葛原妙子の歌はたとえばこうだった。
赤き花抱きてよぎる炎天下いくたびか赤き花のみとなる
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そういえば、大辻さんの本には河野裕子論もあって、そこにはこんな歌も掲出されている。
横たはる獣のごとき地の熱に耳あててゐたり陽がおちるまで
大島渚『儀式』の一節と同発想の歌だ。これは大島本のゲラに入れさせてもらおう。