つなぎまちがい
大辻隆弘さんが佐藤佐太郎論で提起した問題は「つなぎまちがい」にも敷衍できる。
「つなぎまちがい」について一言しておくと、小津のイマジナリーラインをまたがないつなぎを宇野邦一さんが「つなぎまちがい」と書き、それをマネの一絵画の、人物と背景(人物)の不統一へとアナロジーしたとき、蓮実重彦がその論理の雑駁さに激怒したことがあった。人物の顔が同方向になり、視線が交錯しない小津のつなぎは、相似性にかかわる、小津の厳密な内在法則によっていて、けっして「まちがい」ではない。内在法則を「まちがい」というのは記述としてもともとヤバいのだ。あるいはジャンプカットの横溢するゴダール映画についても「つなぎまちがい」がよくいわれるが、ゴダールのカット接合も、概念か図像の相似性を換喩的に隣接させる法則にもとづいている点を、平倉圭がコンピュータ解析であかしたところだ。
短歌にはカッティングがある。塚本邦雄にたいしていう「短歌的喩」をまずおもう。そのカッティングはギザギザしているが、佐太郎のような、つなぎまちがいのかんじがしない。ところが俳句の世界では、名句につなぎまちがいが横行している。今日も文学老女さんがアップしてくれた橋閒石の一句に眼をみはった。
思惟の壺黒きを抱いて蛇熱し
詩でもつなぎまちがいを有効につかうことができる。創作実感をいうと、詩を書くのはもともとすごく恥しいことだが、このつなぎまちがいが、「抒情の恥辱」を回避する一手段ともなる。そういうものもなく恬然と発表されている詩篇をみると、こちらがあからんでしまう。しかしいまはベタな時代。そういう詩集が賞をとることが多い