石井裕也・舟を編む・簡単に
昨日は石井裕也監督『舟を編む』の試写に。
なにか混淆的な配分があって、その配分への運動神経に驚く。たとえば旧い空間と新しい空間の織り交ぜ。あるいは松田龍平・宮崎あおい主演と銘打っていて、宮崎がなかなか出現せず、けれどもその出現した瞬間に「やはり」驚かせること。配役には伊佐山ひろ子と黒木華の新旧世代が配分されていること。あるいは配役でいえば、オダギリジョーからアクがぬけ、鶴見辰吾にはアクがあるかわりに「悪」がぬけていること。それらによって笑いが映画のリズム的推進力になること。辞書名「大渡海」の縁語として海や海中のショットが句読点的に出てきて、それが「正しい隠喩」となっていること。
原作の三浦しをんのベストセラー小説はもう内容も知られているとおもうが、辞書編集部が十数年かけて辞書づくりに奮闘する話だ。出版社の編集作業をえがくのはもともとは難しいが、辞書づくりなら起点も終点もくっきりしている。苦労も画にできる。それで成功が約束されたようなものだが、石井監督の繊細さは、ならぶ書冊をうつくしく捉え、しかも用例採取の字からゲラの字までを抜群のトリミングで接写、しかもすばやく散らす。字とこういうかたちで相性の良い映画は久しぶりだった。しかも「右」から「恋」まで語義につき観客自身にかんがえをおよばせることで、大海を渡るような辞書づくりの偏屈な世界へと自然に航海をうながしてゆく。そうして観客は人物たちへの自然な応援モードにはいる。とくに身の引き方のうつくしさをあてがわれたオダジョーは役得だった。
ちなみに上映中、まだ松田龍平の出ない段階でぼくがかんがえた「右」の語義は、「ひるま太陽にむかったとき、やがてその太陽が沈んでゆく方」だった。だから龍平には彼の最初の語義提示で親近感をもった。
松田龍平の挙止が一芸のみある者の放心をかたどって笑えるのだが、それが、庖丁を縁語にように配されている宮崎あおいの挙止のうつくしさと釣り合う。あるいはその宮崎を満月と捉えると、松田龍平はきれいな半月だ、という対比が出てきて、やはり配剤のアンサンブルが抜群なのだ。小林薫の再登場のタイミング、13年の時制の飛ばし、加藤剛の死がいったん物語の下にもぐる処理もいい。脚本はなんと渡辺謙作。話法が流麗で、かつ、「物質」のなにに肉薄すべきかの指針にみちあふれている。
良いもののうちでなにが最も良いのだろうとかんがえた。たぶんテンポだ。とくに演技テンポ。象徴的なのは、龍平が宮崎宛に書いた巻紙状の恋文がオダジョーの机にひらいたままになっているのを伊佐山ひろ子が折りなおして封書にいれる動作とか、その達筆の恋文を読めなかった宮崎が職場(高級割烹)の親方に読んでもらって恥ずかしかった(そこは関節描写)と龍平にじかに告げながら、こわばっていた顔がひかりにだんだん解除されるだろうと観客がとらえる時間の、予感的な実質だ。そういうもので作品の時間がいわば倫理的に織りあわされていて、同時にそういうものが傑作の実質なのだとおもいあたる。
この作品は公開前により精緻な文章で書こうとおもうので、ここでおしまい。試写のあと、プロデューサーの孫家邦と二時間ぐらい近くのルノワールで話した。もっとも話題はこの映画のみならず、あちこちへと飛んだが