山口昌男さんが亡くなった
山口昌男さんが亡くなった。ぼくにとっては不思議な縁のあるかただった。というのも、キネ旬退社に山口さんがかかわったのだった。こういう経緯。○山口さんが雑誌『芸術倶楽部』でキネ旬が出していた『エイゼンシュタイン全集』の訳文を批判→○以後、山口さんは全集刊行グループの天敵となる→○キネ旬から『エイゼンシュタイン全集』が久しぶりに最終巻「無関心な自然ではなく」として出ることになり、阿部が編集担当となる→○阿部と東大院生グループが訳文を厳密にチェック→○訳文に確証のある刊行となったので、意図的に刊行記念対談に山口さんに出てもらう→それが旧「全集刊行グループ」の逆鱗にふれ、社主にあたるひとに「協調性のない編集者」として直訴するといわれる→○阿部、馘首→○山口さんが激怒、「社主」にあたるひとに逆提訴しようとしたが阿部がそれをとどめる
まあ、あの時期、キネ旬にいつづけてもしょうがなかったし、山口さんもその後のぼくの評論家デビューをすごくよろこんでくれた。そういえば、当該の刊行対談(山口さんの相手は鴻英良さんだった)を山口さんは「きみは対談記事の編集がうまいなあ。どこを削ったかわからない」と絶賛していたっけ。
むろんぼくらの世代は山口さんの読者だったひとが多いとおもう。「中心と周縁」理論というよりも、その理論に影響を受けた大江健三郎や中上健次を領導したひととして、振り返るようにまずは読まれたのだとおもう。それでたとえば「道化」について知見をひろめてゆくことで、ヨーロッパ全体にわたる民俗学を手中にしたひとが多かったのではないか。山口さんには『道化の民俗学』『道化的世界』があり、その関連本として晶文社から出ていたウェルズフォード『道化』やウィルフォード『道化と笏杖』などをみんな読んだのではないかとおもう。だから山口さんはニューアカの先駆というより、高橋康也や由良君美の同輩で、高山宏さんなどの先駆者という感じがした。
山口さんというと、蓮実重彦や浅田彰が天敵視したひととしても有名だが、ぼくは山口さんの映画評論が大好きだった。フェリーニを論ずれば、道化からヨーロッパ全体に論究の射程がひろがってゆく。学際性と祝祭性が抱き合わさったような、大スケールな著述はやはり日本人離れしていた。モーツァルトなどを書いても素晴らしかった。80年代まではすごくご多忙だったろうとおもう。よく試写などで上映を待つあいだ、ひざのうえに原稿用紙を乗せて原稿を書かれていたものだ。それで意と勢いがあまって、たとえば主語と動詞が精確に呼応していないなどの弊もでた。なにしろものすごい知的エネルギーのひとで、あれだけ対談などで滔々と喋りうる才能は、山口さんのほかは平岡正明さんしかぼくは知らない。
高山さんの師匠格の山口さんが、坪内祐三クラブの部長みたいになったころから、山口さんの著作に転機が訪れ、そこに大河のような流れと燻し銀のひかりという、相矛盾するものがなんなく同居できるようになる。『「敗者」の精神史』『「挫折」の昭和史』『内田魯庵人脈』。「精神史」というとなにか林達夫的だし、しかもここにはあきらかに日本回帰的な模様替えもあるのだが、花田清輝的ではない。陋巷に消えていった人々の生までもを稀覯書からつないでゆく方法は、実際はベンヤミン的な着眼=パサージュにたいするまなざしにもとづいていたとおもう。坪内祐三さんなどはこの山口さんの方法をさらに自己流儀化していくことになるが、ある言い方をすればまだまだ本の分厚さが足りない。あっとおもったのが、酒井隆史さんの『通天閣』だった。そうだ、歴史哲学的精神史、というジャンルを山口さんが確立して、ずいぶん後続の助けになっているのではないか。ただし山口さんにはとうぜん、アフリカのフィールドワークでつちかった文化人類学の筋金がはいっている。
ともあれ、伝説的な読書家だった。どのくらいの近眼だったのだろうか。そういえば蔵書が納められないため福島の廃校になった小学校を買って、それぞれの教室を書庫にしたという話があったが、それらの本は札幌大学学長赴任時に大学に移されたのだろうか。