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沖田修一・横道世之介・簡単に ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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沖田修一・横道世之介・簡単に

 
 
沖田修一監督『横道世之介』の冒頭は新宿駅東口から高野方向に向けたロングショットで、ヨドバシカメラの横には、ビッグカメラではなく「さくらや」が「ちゃんと」あるのに感動してしまう。斉藤由貴の巨大ポスター、バブル時代の女の子の太眉メイク……そこに長崎出身の、周囲と温度差のあるニコニコ・キャラクター横道世之介=高良健吾が登場する。

モッズヘアーだがモッズ精神とは無縁の彼は、長崎の漁村出身、法政大学経営学部の新入生で、即座におなじ新入生の池松壮亮、朝倉あきと知り合い、サンバ踊りを中心とする南米文化研究会にはいるなど、冒頭の流れはそのまま80年代後半青春グラフィティだ。西武新宿駅前の太目の三人組アイドルグループのパフォーマンス(ラグタイム歌謡ともいうべきものを唄っている――音楽は高田漣)、石井明美の「CHA CHA CHA」など時代色をしめす歌もながれる。

だが画面にそのまま描かれている時間をA系列とすると、B系列というべき時間がやがて画面に侵入してくる。最初は池松と朝倉が結婚、すでに中学卒業前の娘がいて、かれらがふと横道=高良をおもいだす趣向となる。つまりA系列の時間をおもいだしている未来の時間Bが人物ごとに点綴されてゆくのだ。

つぎにはたぶん高級コールガールだった謎の女・伊藤歩がB系列時間ではDJに転身していて、そこで読むことを臆したニュース原稿がそのシーンの終わりにやがて判明する。「午後五時十四分」(この「ご」音の連鎖が読みにくいと彼女は言った)山手線新大久保の駅で酔っ払い男性がホームから転落し、助けようとした韓国人男性と日本人カメラマン「横道世之介さん」(33)も電車に轢かれて即死したと。2001年1月26日に起きた、自己犠牲美談ともなった新大久保駅乗客転落事故の犠牲者が高良健吾だったということになる。

この判明があってから以後、観客は現在(2013)年から事故時(2001年)をつうじて過去(1980年代後半)を覗くという複雑な視角を得ることになる。いわば「時間の二重底を覗く」ことによって、最初にあった80年代の「底面」のなつかしさ・唯一性に吸着されてゆく恰好だ。吉田修一の原作は読んでいないが、これも原作の趣向だろうか。ちなみに脚本には監督のほか、五反田団の前田司郎の名がクレジットされている。

高良はやがて、彼自身よりもさらに奇妙な成金一家のお嬢・吉高由里子と恋仲になり、舞台はノスタルジックな長崎の漁村にも伸びて、そこで高良の父母役のきたろう、余貴美子が「いい味」をみせたりする。「かつてあった時間」の真相をなんとか手づかみしようとする撮影は名手・近藤龍人によるもの。

ちいさな永遠の発見がいい。最初に高良と朝倉が階段教室で知り合ったとき、通路を挟んでぎこちなくなされる会話をふたりの後ろ側から捉える長回し。あるいは、吉高の家にはメイドとして広岡由里子がいて、一度目は館内の応接ルームを舞台にした吉高・高良の「告白」シーン(そこで吉高はカーテンでからだを巻く――つまり風間志織『せかいのおわり』での中村麻美とおなじポーズをとる)では広岡はいかにもお目付け役という感じでロングに固定されている。

ところが吉高がスキーで骨折した病室では、吉高と高良が遠慮せずに相互に心配をさせあう仲であっていい、名前を呼び捨てにしてもいい、とさらに「高次の」相愛確認をするのだが、構図上、ふたりの中央にいたロングの広岡に、やがてカメラはズームアップしてゆく。広岡は幼い愛の成行きにほろりと感涙していてそれが笑える。この広岡には科白がないのだが、一回目の「お目付け」演技へのご褒美として二回目のズームアップのあることがあきらかだ。

きわめつけは、高良がアパート隣室の井浦新からカメラを借り、写真をはじめて撮りはじめたとき吉高が二週間フランスに留学に行くということになり(そこで彼女はたぶんボランティア熱を吹き込まれて、以後、高良と別れて世界放浪人生にはいったと事後判明する)名残惜しい別れのデートをしているシーン(このとき撮られた写真の現像された状態を観客はすでにみている)。バスが来た、とロングに見たふたりは見たバスの反対方向に疾走、吉高のスーツケースをもった高良は階段を見事な運動神経で吉高と並走し、回り込んできたバスの到着に間に合う。このシーンの撮影も、階段のつかいかたが風間志織『メロデ』の1シーンをおもわせる。

そう、近藤龍人が捉える「かけがえのない過去」はみな「奥」「奥行き」に関連している。つまり階段教室の通路を中心にした構図も、愛し合おうとするふたりのあいだを中心にした構図も、その中心には「奥」があるのだ。そのような「奥」から最後、バスが垣間みえて、ところがそのときだけ奥が自分たち(高良・吉高)の眼前へと場所を変更する。なぜ場所が変更されたのかというと、そのやってきた西武バスこそが、ふたりが最後に互いをみた「器」となったためだった。時間の二重底を見下ろすとは、「器」状の媒介物を列聖することに実はつながっているのではないか。

長崎の夜の海岸では、高良と吉高が初キスをいましもしようとしている。そのとき「視界の奥」に吉高はベトナムからの難民(ボートピープル)が上陸してくるのをみる。吉高は勇躍、疲弊しきった母親と乳児を助けた。この行動原理の利他性がたぶん高良に「転写」され、のちの(作品には描かれない)高良が新大久保のホームから酔漢を助けようと飛び降りたとすれば、のちの高良の眼も、対象が現れる「奥」をずっと探していたのだという感慨になる。

以上のようにこの作品は撮影主題・撮影設計にひじょうにふかいかんがえがあるのだが、問題はコメディタッチの青春グラフィティが上映時間160分という長尺だということだ。まず演技テンポが悪い。高良健吾は、たとえばTVドラマ『最高の離婚』の瑛太、あるいは映画『舟を編む』の松田龍平同等の「へんなやつ」なのだが、キャラクター造型のなかに未記入部分・未開発部分をのこしてしまった結果、「謎」「不可知性」の奥行きができて、結果、カメラが「観察」をしいられ、カット尻がだらしなく伸びてしまっている。演ずる機能と撮る機能が映画において合致していないということだ。

あるいは吉高由里子の演技も不安定すぎて、これまた時間がさくさく進んでゆく快感を欠き、長尺の原因となっている。脚本は無駄なシーンはあまりないが、1シーンごとの撮影が、思い入れとは別の感覚で(運動神経が悪いように)長いのだ。それで効率性とからまって出現するはずの感興がうすれてしまう。時間論の本質にふれているだけに、勿体ない映画だとおもった。
 
  

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2013年03月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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