フランシス・ベーコン展 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

フランシス・ベーコン展のページです。

フランシス・ベーコン展

 
 
肉はながれる。肥り肉だからというのではなく、肉そのものの属性が肉のうえをくずれる。色が飛ぶ。影まで色になる。ゆがむ。幽体が「受肉」して「姿」となっている存在の方式には、すでに超越性の惑乱が瞬間的に経由している。そうした動勢こそをとらえる。

肉塊。ハムのような断面。部位の交換。肉が肉によって顕れ、肉が肉によって消される。肉の盲目に視覚をあたえるために、肉はねじられなければならない。感覚に本質的にまとわりついている吐き気。だが眼は肉を視、耳は肉を聴き、鼻は肉を嗅ぎ、舌は肉を舐め、歯は肉を噛み、腕は肉をもぎ、手は肉を撫でるしかない。肉には再帰性があって、肉であることはそれを逃れることができない。肉は肉にふれる。それが吐き気だ。肉のなかでいちばん肉的なもの、舌。それは性器ではない。けれど舌は描かれない。性器も。舌や性器は形象の全体なのだ。

肉にまぜる。円弧を。檻を。矩形を。椅子を。組まれる脚を。反りを。ねじれを。毛を。脊髄を、ひいては性器や存在の「線」を。全体の舌を。それでもいかついふくらはぎが、いやにはっきり視えたりもする。顔の中央は隆起するか陥没するか二重化するかのどれかだ。ということは、肉はいつも褶曲のための素地なのだ。

肉をパン種のように加工変型して、しかもそれを焼かない。生のままにする。はだかのときの肌の色。あるいは着衣のときに着衣のまま肉を変型すれば、それは牡蠣の身のようなはしたなさまでおびて、おぞましい。これらのおぞましさは存在不安と合致するいっぽうで、聖性をわずかに逆照射する。威厳はあきらかだ。異言も。それでも細部は連環されて、かたちはねじれのままに自足となり、だから「みえているものはみえない」。かたちと色が、あるいは輪郭が、通常性をいつも超えているのだ。動悸がはげしくなる。

肉と肉腫に区別はない。肉と瘤にも。ケロイドになったり、皮膚を崩壊させる病となったりする肉に、肉の本質が宇宙的に顕れる。肉は骨格と神経と関節からなる、かたちの意志だ。肉は感官をおびない。だからこそ逆にかたちは自己再帰しながら、おのれを、肉と骨格と神経と関節とに分有する。けれども肉以外のものは動物的な気配になる。人間がいない、といえるのは、動物性があると直観するときだけだ。

画筆はうごく。描きつけた肉のかたちの着想が、つぎの瞬間、すでにべつの着想に「移行」するのなら、えがかれるべきは肉の静態ではなく、肉の移行なのだ。イメージを「それ」に限定する。移行はべつに扉やカーテンをくぐるからだの移動でなくともよい。肉そのものに、動作ではなく、「形而上的な瞬間の移行」があるためだ。ずるり、というオノマトペが肉から聴えつづける。

ふたつの肉の境はぼやける。ぼやけることはつめたい炎上に似る。教皇もぼやける。スフィンクスや犬までぼやける。肉の受肉がうたがわれたとき、霊体に復帰する「部分」がある。部分が真の部分であるために、その箇所は透明化されなければならない。そうして透明化のかなったものが、空間を泥棒のようにすりぬける。なにかがすりぬけつづける絵。それは画布だろうか、孔とよぶべきではないのか。

食人と性愛の相似、けれどもこの相似は、霊は食べられないという逆襲を受けて、視る者の舌を焦がす。黒のきなくささ。赤のにがみ。オレンジの酸っぱさ。色のみは瀟洒に配置されながら、構図の中心にゆがまされぶちまけられた肉は、「いま」から「つぎのいま」までのうごきにおのれをゆがませる。ところがタッチのはやさはまさに運動のながれとして知覚され、瞬間から次瞬間にながれる画筆の累積こそが絵画の本質だと告げてやまない。その意味ではタッチこそがイメージにたいして先験的だといってもいい。

背景と肉のあいだに緊縛はあるかもしれないが、物語的には背景は空洞だ。肉にとっての舞台はまず空洞がふさわしく、つぎに檻がふさわしいのだ。そう、檻と空洞の相似。画中画とともに、肉が自身の奥行きをひらくことがある。叫びをあげる黒い口腔がそれだ。有歯膣になることもある。あるいは漏斗状の肛門ともなるだろう。それでもメタモルフォシスの系譜には置かれないなにかがある。つまりメタモルフォシスが「うつくしい時間進展」を予定・内包しているとすると、画布のなかでの時間はいつも「宙吊りされた数瞬」、その無限のゆらめきなのだ。とどまらない。

ミケランジェロ、ベラスケス、マイブリッジ、エイゼンシュタイン。絵画、写真、映画スチル。ホモセクシュアリティ、泥棒をはじめとした犯罪。貧困表象と、禁治産者の奢侈。うらぎることと自己算段。それでも自分の愛するおとこが自殺したときには運命の悲劇性に崇高感がまいこんでしまう。記憶がそうして描かれるが、それらだって「数瞬のあいだにあるゆらめき」ではないか。大きな進化ではなく、わずかで、しかも空間を実際は裂いてもいる時間のゆらめきにこそ「神経」は無時間的にまどろんでゆく。

これらの絵が吐き気でも恐怖でもないひとびとは、自分の神経に麻薬をあたえ、無時間に肉薄することのできる智者なのだ。自分ののどちんこを心のなかの手がつかんでいて、けれどもその刺戟に耐える。眼前にしたのはそれをしいる猛毒の画家だろうか。ちがう、くりかえすが描かれているものは本質的にみえているものにすぎない。ところが「みえているものはいつもみえていない」のだ。そのあわいが、繊細に、あるいは超速で描かれているだけだ。

――以上は昨日、東京国立近代美術館でのフランシス・ベーコン展にておもったこと。なぜかきれいな女がいっぱいいた。会場から出ると、北の丸公園で白木蓮がつぼみを満載させていた。そういえばドゥルーズのベーコン論『感覚の論理』は研究室に置いてあって、帰宅後、すごく読み直したいのがかなわなかった。
 
 

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2013年03月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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