メランコリカー
画像にまざっている憂鬱の形式についてかんがえるのが、今年の課題のひとつだろうとおもっている。ひかりと影がそこにどのように混ざっているか。窓や扉など、「眼」にあたるものがあるか。ひとに病勢とまごう愛の表情があるか。画面の推移が記憶可能な臨界をこえているか。断面として提示されているものに精神がきざしていないか。うけとりそこなうすべてが、すでに自分自身のうけとりそこないを逆照射していないか。南方からもどって森雅之との再会を果たしたあと、待合でのキス場面前後で高峰秀子がみせた、たゆたう表情の速さは、ほんとうは「顔」にまつわる恐怖を醸成させていた。
ベラ・バラージュは画面に「顔」をみいだした。この見解にはまだ多くを敷設できる。顔がなげいていないか、叫んでいないか。ことなる属性を多重化されているそのことがすでに叫びとなっていないか。かたちにまで精神をみとめてしまうのなら、顔を集団にさしもどす白面化や黒面化とはなんだろう。ひろがりとはなんだろう。さらに「奥」とは。そのうえでなぜうごきが動物性を経由して「愛」に似てしまうのか。反復=リトルネロの憂鬱がそこにある。視るべきものとは本質的に個体ではなく、群れだ。
畸形の本質をかんがえれば美の定型性までゆらぐ。そんなものが一旦はものがたりに従属してしまうとき、叙述の機能とはすでに選別を超えた悪意の配置ではないのか。しかもその配置もまた時間のなかで顔となるのだ。この顔も複数なのはいうまでもない。
憂鬱、行動を意気阻喪させるもの。行動のなかに「ふくろ」をつくるもの。それは視ることにすでに装填されている。黒胆汁、土星、サチュルスといった分類は、視ることの普遍にたっしていない。視ることがそのままなにかを混ぜることになるような、眼球下、神経上のはげしい充満。眼が脳におしこまれて、脳がそのまま眼になるような、ひかる逸脱。そうしてもののあいだに「粉」をかんじること。自殺と自然死の本質的な分別不能を憂鬱のひとネルヴァルは生きた。現在的メランコリーはそこからはじまる。
太陽がくろいことは重複だ。空虚と充満が心性において同時化することによって、重複は物質が思考をもつための容積ともなる。あるいは天上と奈落も位相重複される。ベルクソンの、任意立脚的イマージュの重畳が世界に充満しているというかんがえはこの点に接木される。この意味で視覚とはまずはおそろしい分離なのだ。それで喪失そのものが「喪失の獲得」となる。クリステヴァからビュシ=グリュックスマンまでの点検の系譜はそれらを詩的に確認した。そこに、これから読むアガンベンを導入しなければならない。いずれにせよ、画面から反射された「感情」を、自分のものだ、というために。現在の問題は以下のようにいえる。「筋金入りのマゾヒストになる以外、精神史にいったい何の昂進ができるだろう」。これらのことをフランシス・ベーコンと対話した。
詩作は、一詩集をまとめあげたという自覚ののち、はなやかに中断している。春の風が砂とともにふきあげた東京から札幌へもどると、路肩の雪にはさまれた路上は、水とかわきの混淆になっている。それでも粉雪が舞っているのだ。なにかの示唆がある。端的にいえば、自己撞着となるような、構文に相反する形容詞を自分の感覚の表面にのせることだ。それこそをみずからの身体性にするのか。けれどもその身体性の全体は「顔」ではないだろう。ならばねがっているのは無顔化なのか。
来週月曜に『映画監督 大島渚』のゲラが送付されるという。そこでまず自己診断をしてみよう。むろん自己診断とは自分の重複化だ。それだけで「意味的に」めまいを起こすかもしれない。