なけて泣けてしょうがない
季刊「びーぐる」は大学図書館を経由してポストにはいってくるのだが、なにかの手違いなのだろうか到着がすごく遅れ、最新号をいまごろ読んだ。その第18号の特集は「名詩を発掘」。忘却にさらされている詩作者を、現在の目利きの詩作者たちがひろいあげ、ひかりをあてているのだが、掲載されている多くの詩篇がほんとうにすばらしい。忘れられている、ということが逆に価値へとひびく面も、ぼくにはあるのかもしれないが、客観的にみても、見事な選定だとおもう。そこから、「マイナーであること」にかんして思索もつむげるだろうが、いまはただ一篇の詩を「継承」しておくのみにしよう。
水野るり子さんがとりあげた次の詩篇が、なけて泣けてしょうがなかったのだ。
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【帰る】
前田ちよ子
朝早くからバッタを捕りに出たまま
子供はふいに帰らなくなる
朝の食事をいらないと言って出て行き
夜にはその食事が本当にいらなくなる
どこにいるのと母は思っている
バッタになった子供を思っている
そこは秋でしょう すすき野でしょう
風が立ち上がっているでしょう
とんぼの赤い群が大きな流れになって
野原の上を高々と渡って行く
母は耳殻のない子供の顔を思う
緑色の眼を思う
舌の無い口を思う
口のきけない子を思う
何日も同じ事を繰り返し思い続け
やがてくたびれはてる
肩をふるわせながらアイロンを掛け
部屋を片づけ 一渡り見回し
そうして母もいなくなる
家は草むらの中にうずもれて
ふたをあけたままの虫かごになる
子供は
帰らなくなった時と同じように
ふいに帰ってくる
虫かごで暮らすうちに
ある時部屋の片すみに
アイロンの掛った
きちっとたたまれたシャツを
長い緑色の触角で見つける
〔『昆虫家族』所収〕
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ラスト「触角」は、「触覚」が誤植ではないかとおもい、直して転記した。
なけて泣けてしょうがない。こんなさみしい詩を読んだことがない。ぼくは動詞「なる」の効果に執心するほうだが、ここでは「なる」の最上の使用法が連続している。しかも、「アイロン」の反復が、物質による語り(魅〔もの〕がたり)本来の、哀切な力を揮いつくしている。家と真葛原を同位するような、河原枇杷男的な、異様な廃墟感もある。カフカの『変身』と同様の着想が見事に詩篇化されているともいえるが、本来は病む自身を起点にしながら、家族の死が幻想されていて、哀切は「子供」にたいしてではなく、自分自身にこそむけられているのではないだろうか。自己への・生前の・追悼。
一篇の詩をそのような感慨も併せて、銘記する。ところがこの特集のすごいのは、「忘れないでおこう」というおもいが、「忘れられている作者」「そのことを忘れない知己」へのおもいと「同時に」銘記される、複合的な構造をもつ点だ。このことにもなけてしまう。つまりぼくが読んだのは、「作品自体」「忘却のむごさ」「伝承」の同時性だった。
それにしても第三聯冒頭四行の修辞的残酷を、どう処理すればいいのだろうか。