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ハネケ・愛、アムール ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

ハネケ・愛、アムールのページです。

ハネケ・愛、アムール

 
 
【ミヒャエル・ハネケ『愛、アムール』】


時間の叡智とは、時間それじたいが抵抗圧をもち、褶曲し、複雑に、縮緬状になることだろう。ならばむろん老いとは、それを肌にあつめることだ。関節と神経と表情と発語は、時間特有の余白に浸食されて、きれいに、洗われるように緩慢化してゆく。むしろ時間の本質が緩慢化なので、老いは最終的に時間と同化する二重性をもって現れるのだ。それがこの世の二重性の最後のひかりともよべる。このことが次の世にむけての予祝ともなって、ひとを感慨につつむ。

ミヒャエル・ハネケ監督の2012年度のカンヌ、パルムドール作品『愛、アムール』で息を呑ませるのは、わかいころは由緒あるクラシック音楽学校で優秀なピアノ教師として鳴らしたという設定のエマニュエル・リヴァの美老女ぶりだ。少女的な含羞と厳格さと矜持、それらのものが彼女の顔に最初は多重化されている。

多重性とはメランコリーの属性でもあり、だから彼女の属性をそのまま瀰漫させたような作品の感触が、パリの高級アバルトマンの室内の混淆的な感触と綜合されてさらにメランコリックだ。玄関からの長い廊下によって二分された室内。知性ある暮らしをかたどる書架、グランドピアノ、CD再生コンポ、絵画、絨毯。リヴァの夫役ジャン=ルイ・トランティニアンはそうした室内の調整を終始おこたらないが、その「調整」をついに衰弱と譫妄のはげしくなった半身不随の愛妻にも適用する。撮影時の年齢はトランティニアンが81歳、リヴァが85歳。

冒頭は鍵のかけられた室内に、通報を受けた消防隊が侵入するところからはじまる。このとき二人暮らしの老人夫婦の家庭に襲った悲劇を、トランティニアンがどのように美的にまとめあげたかが端的に提示される。作品は倒叙法の仕掛けで、そのまえに夫婦がどのような生活変遷をたどったのかを、静謐に、しかも意外なほど効率的な話法で綴ってゆく。むろん基調になっているのは「ひとの尊厳」だった。

施錠と目張りをされたドアをこじあけて室内にはいること。そうなると、「内部」とは何かが作品の主題になっていることが、容易に判断される。冒頭での悲劇の簡潔な描写から過去へと一転したとき、場面はリヴァの教え子のピアノリサイタルに夫婦が臨席する画に移った。その留守の際、空き巣がはいっている。手口は乱暴・稚拙で、バールで玄関扉を破壊して侵入したというもの。彼らは帰宅後の一晩、ドアの修理もままならない(つまりアバルトマンの内部と外部が相互浸潤した)状態で、不安な就寝を余儀なくされる。そこで「内部」のつよい組織化が開始されたのだ。

換気のためだろう、彼らの住まいは中庭にむかう窓を高い頻度であけられているのだが、そこから二度にわたり一羽の鳩が侵入する。一度目はなんとかトランティニアンが導いて、ふたたび窓の外へ鳩は放生〔ほうじょう〕された。二度目はわからない。トランティニアンが一部屋に鳩を導いて、その鳥におおきなショール状の布をかぶせ、布ごしに鳩をつかんで(つつんで)その自由を奪った詳細が、ドキュメンタルな撮影で捉えられただけだ。彼はその顛末を、遺言書めいた書き置きにしるす。二度目の今度も鳩を窓から放生したと。その場面は、実際は描出されず真相はわからない。ただし鳩にたいするのとおなじ動作を、そのすこしまえ、トランティニアンが妻リヴァにしたのもたしかだから、観客の予想はむしろ不穏さにつつまれるはずだ。

リヴァを襲ってゆく異変をメモしておこう。最初、朝食用ボイルドエッグをトランティニアンにつくった直後、塩が食卓にでていないとトランティニアンに指摘される。彼が塩を台所にとりにもどった瞬間、リヴァは瞠目したまま意識を失って微動だにしない。頸動脈の異変がおこした発作だと診断され、安全とおもわれた手術に臨むが失敗する。

以後、リヴァは左半身の自由をうしない車椅子生活を余儀なくされる。リヴァはもともと病院や医者ぎらいで、夫婦は自宅看護を選択する。アバルトマンのひろい室内をつかってのリハビリにも精をだす夫婦だったが、やがてリヴァが失禁、彼女の尊厳がこわれはじめる。認知症の到来。童謡をうたわせるなどして賦活につとめるトランティニアンだったが、やがて彼女は水の摂取も拒否するようになる。トランティニアンは死を選択したい彼女の意志を暗黙につかむようになる。

頸動脈手術から術後退院したリヴァは、車椅子から椅子にからだを移すなど習いおぼえた身体補助のコツを夫トランティニアンに伝授する。手で背中を支えつつ抱きかかえるときに相互に身体密着しないと危険らしい。さっそくその動作でトランティニアンがリヴァを椅子に移す。このときたぶんリヴァの「内部」がトランティニアンの「内部」に「侵入」したはずだ。やがて食事介護で匙や水差しをあてがうことで、トランティニアンの眼前のリヴァの顔が、もはや内部と外部の弁別をなくす。

さらには前述したようにリヴァに痴呆のきざしがでると、リヴァの精神にも「内部」「外部」の弁別線がなくなる。トランティニアンはその精神にたいして童謡をうたい、少年時代の思い出話をすることで破裂しようとしている「外部」を内部性に押しとどめようとする。このときリヴァの、皺にうつくしく刻まれた顔が、まぶたに隈を生じ、ノーメイクの肌がさらに病的な白みをおびているのだが、その顔が内部と外部の境をかたどる崇高な懸崖だという感慨にも、観客が包まれるのではないか。

内部にあるものが外部化されること、それは痛ましさと同時に「やはり」エロティシズムを発現する。左膝をまげるリハビリをベッドのうえでリヴァがおこない、それをトランティニアンが補助するとき、あらわになったリヴァの片脚の肌の、白磁のようなうつくしさに息を呑む。

用を足し排水したあとのリヴァがトイレにトランティニアンを呼ぶときには尊厳あるフレームが採択されてはいるが、そこでは内部と外部が浸潤するように老女性と童女性が相互浸潤している。リヴァが失禁したときにも彼女の下半身が現れないフレームが採用される。フレームそのものが「内部」「外部」「現れてもよい内部」を再規定している。それでも看護師が来てのリヴァの洗身介護のシーンの一瞬で、80代のリヴァの豊満な胸部が捉えられる。内部を外部が突き破ったその刹那でも、外部が内部として再縫合されるという理解がえられるだろう。

リヴァは肌のひと、まなざしのひとだ。そのまなざしが譫妄により正常性を剥奪されてゆくくだりでは、衰弱する身体の宿命とともに、美醜の混淆ゆえのメランコリーが「やはり」現れる。感情移入して痛ましさをおぼえるというよりも、衰弱の質が粉飾なしに現れている威厳に打たれるのだ。

彼女は脈絡のある発語ができなくなる。カタコト化して、ことばよりも空白を「語る」頻度が危機的に高まってくる。声ではなく息になり、ことばではなく子音の乱れになる。そうした発語に「内部」を見出すのが次第にむずかしくなる。ことばの海が外部にさらされて息そのものが多島状になり分解しはじめたとき、ことばは線ではなく点、もっといえば汚点にさえ似てくる。娘役のイザベル・ユペールが衝撃のあまり嗚咽をもらすのもとうぜんだった。

どんどん「悪化」するうつくしい老妻。結果、イギリス人と結婚して俗っぽさを作劇上あたえられたイザベル・ユペールがどんなに心配して電話をかけても、トランティニアンが応答や留守録メッセージに返事をすることがなくなり、ついに夫婦ふたりの「内部」は、内部をより物理的にしたもの――すなわち「閉域」へと変化してゆく。その変化をたぶん観客は、依怙地という精神性としてではなく、「関係の必然」として捉える。トランティニアンは、そして正気になる頻度からいって「半分の」リヴァは、相互の内部性を純化するために、「外」を閉ざすよりほかはなかった。ところがその内部に寓意的に「外」が侵入した。それが前述した二度の鳩で、一度目と二度目が同等にえがかれなかったことにこそ、この作品の骨子がある。

典雅と衰弱と憂鬱をまぜこむリヴァの表情はふるえるほどうつくしい。トランティニアンの献身もうつくしい。ふたりの挙止が綜合されての「内部」はどんなに苦渋にあふれても親密な表情を絶やさないのだ。「それ」はトランティニアンの眼前にあり、リヴァの眼前にあり、つまりは観客の眼前にもある。

ところが内部はすこし離れれば、眼前性をうしない、「外部から想像される内部」へと変貌する。このとき外部に内部の色彩をあたえるものがなにかといえば――「音」だ。もともと最初、頸動脈手術のまえに意識をうしなう発作をむかえたリヴァに動顛して奥の部屋へ上着をとりにいったとき、シンクの水道水をトランティニアンは出しっぱなしにしていた。トランティニアンは離れた部屋から水道水の音がとまるのを聴き、いったん現出された外部性が、離れていながらも内部性へと「治癒」されるのをそこで知ったのだ。

やがて「音」は内部性/外部性の境界を通過することから、現実/非現実の境界を通過することへと、その審級を上昇させる。それで元気だったころのようにグランドピアノを弾くリヴァが現れ、やがて最終シーンのまえ、洗いものの音をさせるリヴァもよびだされる。そのまえのリヴァは寝室から「痛み」を訴えるさけびを、いわば外部から外部へと多くひびかせていたのだから、ハネケのほどこした審級移行も親和的といえる。とはいえハネケ演出の外部/内部の弁別は厳密だ。「外部の外部」を想定しているからにちがいない。その点で『抵抗』『やさしい女』のブレッソンを継承しているのかもしれない。

つまり『愛、アムール』で描かれている「内部」は「外部」とも可変的で、この意味でこそ、「内部の内部」が「外部の外部」とひとしくなるのだ。もっともうつくしいのは、ラスト前、洗いものの音をさせ、ありえない文脈で過去化・通常化したリヴァが、トランティニアンに一緒の外出をうながす場面だ(それは文脈上、トランティニアンの「たったひとりの」出奔を意味する)。ふたりが去ってアバルトマンの室内にできた「空舞台」をカメラは、小津――とくにその『晩春』のラストへの展開に敬意をささげるように、凝視する。

この画柄は二様に解釈されるだろう。つまり二人が消えたあとの「空舞台」が「内部の内部」なのか「外部の外部」なのかを、観客はいいあてることができないのだ。この「価値の落としどころのなさ」こそが、「老夫婦の愛の物語」という以上に、この作品のきびしい魅力なのだった。

そうしてできた空虚に、心配したイザベル・ユペールが再度訪れてくる。出迎える者はいない。カメラは居心地悪そうに椅子にすわったユペールを、内部性からも外部性からも永遠に放逐された者として、横からロングに捉える。そこで映画が残酷に終わる。

最後に、もうひとつ、「内部の恩寵」が作品に差し挟まれる点も特記しておこう。左半身不随ながらまだ意識のしっかりしている段階のリヴァが、食事中にもかかわらず夫トランティニアンに「アルバム」を所望する場面がある。そこで怪訝におもいながらトランティニアンがアルバムをとりにゆくと、リヴァは食卓にそれをひらいて、その写真から、過去の推移をなつかしく反芻する気色となる。

家族スナップが装われているが、少女時代のリヴァ自身の写真が現れたのち、『ヒロシマ、モナムール』のころの彼女、『素直な悪女』のころのトランティニアン、『勝手に逃げろ/人生』のころのユペールのスナップもあらわれ、時間の本質が、振り返られたときには「内部性」「内部的恩寵」だということが強調されるのだ。リヴァとトランティニアンのそのときのやりとり。「素晴らしい」「何が?」「人生よ。かくも長い、長き人生――」。この一連からレネ=デュラス、ヴァディム、ゴダール、コルピ=デュラスなどの固有名詞もざわついてくる。
 
 

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2013年03月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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