ゲラの奇妙さ
かんがえてみれば、ゲラとは奇妙なものだ。それはできあがる書籍の前段階であり、亜流だといえるが、可塑的で、著者はあがってきたゲラの正規の印字に、手書きの赤で、訂正をほどこしてゆく。思考過程と型式と説明手順がそこで磨きあげられ、同時にあらゆる短慮が中庸やおとなしさにむけて是正されようとしてゆく。印字と手書きは明視状態におかれつつ「同時的な二層」をなし、じっさいはそこにこそ「完成」にむけての作者の個性がはっきりとしるされることになる。この意味でゲラは、できあがった書籍よりもはるかにおもしろいものであって、書籍ではなくゲラが書籍化されないことは、出版文化の不当性をしめしているともおもわれるほどだ。
書き込みは書籍の最終形を実質づける動勢であり、つまりゲラは、書籍の静止形にたいして「うごいて(うごめいて)」いる。ゲラの一頁は一頁ではない。時間が多重化され、たとえば赤い書き込みによって削除された一節すら、亡霊のままにうかびあがって、著者の思考の弱点や身体的な癖を、できあがってゆく書物よりも生々しく露呈している。そこには消えてゆくものに多くともなう哀切すらかんじられるかもしれない。消さないでくれ、という節のさけび。
むろん入稿それじたいに、著者の個性がある。文章や詩句に神経質な吟味をかさね、ほぼ完璧な状態で入稿をおこなう潔癖主義者がいるかとおもえば、ゲラという客観材料をもちい、そこにときには巻紙状の別紙まで貼りつけて、厖大な書き込みをおこなう作家もいる。そうなると、それは原稿用紙への手書き草稿とも似てきて、作家の思考形式を計測する一級資料にまでなる(プルーストなどの場合)。逆に潔癖な筆者が赤字をほとんど書き入れずにゲラを返却するなら、身体性と思考の錯誤を編集者にもみせずにおく彼・彼女の、一種の過剰防衛が、これまた一級資料的な証拠物を形成するだろう。
ゲラでは章句や引用体系を、入稿後の見聞をつかい後発的に挿しこむことも多い。だれでも入稿後は謙虚になり、じぶんの入稿したものの関連域をゆきまよって、自己是正の材料をさがすのだ。ところがそれは入稿とゲラ到着のあいだに一か月ていどあるときに適宜なインターバルとなるにすぎない。もし入稿とゲラ到着の時差が十年なら、ゲラそのものが瓦解されるか、書き込みの有効性が無視されるか、どちらかになるだろう。その意味でゲラの組成は弱い。
本を出すのはいくら当人が否定しようと名誉にかかわることで、くすんだ勲章を周囲にふりかざすことに似てしまう。ところがゲラに取り組むのは、刊行の目的もわすれ、自分の書きものの修正にただ没我する、「労働」に回帰してしまう。そこに「手作業」が関連するから、書き手はゲラという閉じられた場が、自分をきりひらくひかりにつつまれていることを個別的に知る。するとゲラに取り組むことが、本を出すことよりも上位のよろこびにつつまれてかんじられる。このときゲラにある付属物、たとえば「トンボ」や「印刷所による分類のための無関係な文字」などが、遊戯にむけられた祭具となる。
つくることにかかわる一旦の達成(「まずは書く」ということ)があったのち、さらに「修正」を上乗せするということ。このばあい、創造の本義は、最初の「つくる」よりもじつは「修正の上乗せ」のほうにあるのではないか。この意味で、ゲラ作業は、音盤づくりにおけるミキシングやマスタリングをも髣髴させるのだが、それが原初的な「手書き作業」でしかないと見据えると、ゲラ作業の精神性がなにかも理解されてくる。つまりそれはエレガンスとアナクロニズムの交錯、つまり「キメラをつくる」いとなみなのではないか。世の中にあまりないことだ。
いずれにせよ、好きな作者のゲラは、書き入れが多いほど、実際は入稿前の草稿よりも興味の対象となる(草森紳一などの場合)。なぜなら入稿前の草稿はゲラにほぼ印字としてはいっていて、あらたにくわわった訂正にこそ、書き手の判断の最終形が露呈しているという二重状態を、ゲラはもっているからだ。とくに当初入稿のときの衝動的な文体が、直しにより、どのように落着きと精確さをえるのかには、ある種の教育効果さえ期待できる。
ところがゲラは文学資料館でなければ、ほぼ公開されない。それは郵送や手渡しなどで返却され、著者のもとにものこらない。著者はできあがった本から、自分が校正のときに入れた直しをうっすらと蘇らせるが、べつの本にとりかかれば、そんな厖大でありながら意味的に些末な記憶など、吹きとんでしまうだろう。編集者もまた、やがてはそのゲラを整理する。そうしてほとんどの場合「ゲラは消える」。価値をもっているものは、同時に「消える価値」までもっていて、その特権的な交錯点のひとつが、ゲラなのではないだろうか。
書籍を20冊ほども出せば、ほんとうは書物とは別の形式の、なまなましいゲラも20あったのだとおもいかえされる。ところがそれはみな手許にない。ゲラが最終的に収まる場所は、「自分自身の喪失」、そういったトポスだ。それは喪失を予定されたものだからありようは「薄く」、ただその現物性だけが厚かったりする(ゲラは実際の本よりも見事に嵩張り、それで保存を倦厭される)。その意味で古色蒼然とした矛盾をかかえもつ、本よりも動物的な感触にざらつくのがゲラなのだ。ほろびゆく種族の悲哀をたたえたそれは、ときに涙の海の水底に、おもいかえされることになるだろう。あそこにひかっている「うすいもの」はなにか、と。
書き手がファックスを手離さない理由の多くは、このゲラのやりとりがあるためだが、ネットコミュニケーション時代の現在は、ゲラのやりとりは添付PDFでおこなわれることも多くなってきた。その場合、「直し」は何行目の○○を●●にかえてください、といった返信メールの文書でしめされるようになる。つまりゲラが特権的にもっていた「存在の二重性」「それじたいが変更の指針をふくむ多時間性」「うごき」が、たんなる「分岐」にむかって平板に解除されるようになってきている。味気ないことだ。
ただいずれはPDFに似た形式の添付物に、書き込みができ、書き込まれた箇所が赤字になるようなネット技術が開発されるとおもう。そうすると、二色出版のゆるされる環境なら、書籍そのものより、そのゲラを書籍化したほうに、より読者のフェティシズムがあつまってゆくのではないだろうか。むろん書き込みが手書きでできる、という条件つきなのだが。