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アガンベン・スタンツェ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

アガンベン・スタンツェのページです。

アガンベン・スタンツェ

 
 
ジョルジョ・アガンベンの『スタンツェ』(ちくま学芸文庫、岡田温司・訳)は詩作をこころざす者には必携図書のひとつだろう。「スタンツェ」には、「部屋」と同時に、英詩でもちいられる「スタンザ=聯」とおなじ意味もある。

アガンベンの筆法は驚くほど自由で、「同時に」文献学的だ。上記からもわかるように「スタンツェ」とは一種の空間なのだが、そこに導入されるものはまず、メランコリーとフェティッシュだ。メランコリーはたとえばフロイトの「悲哀とメランコリー」から、喪失と獲得の同時性ととらえられ、相互離反する情動や事実がかさねられる場所がメランコリーのスタンツェとなる。フェティッシュでもフロイトが参照され、母親にあるとおもわれるペニスがフェティッシュの本質だというフロイトの所見から、「ないもの」だけが部分を全体化する契機とみなされ、それがフェティッシュのスタンツェとなる。アガンベンの論旨は、最終的にはソシュールを襲った、厳密性と不可能性の共存の「空間」へと伸びてゆく。

ぼくは近藤耕人の著作から『スタンツェ』を、ベンヤミンの『ドイツ悲劇(哀悼劇)の根源』の継承的思考と読む前は捉えていた。なるほど、アレゴリーにかかわる考察もある。ただし「比喩」でいうと、換喩=メトニミーへの考察のほうがつよく印象にのこった。ヤコブソンからイーグルトンにいたるメトニミー考察は、実際は逼塞的なのだが、それらへの突破口があきらかにアガンベンにあった。

換喩は「部分(フェティッシュ)」から「全体」への遠心運動をおりなすものだが、フェティッシュとはアガンベンによれば上記のように「ないもの」なので、その「ないもの」が外延されてゆく全体もまた「ないもの」だという逆照射をうける。であれば、記述される空間すべてが部分と全体に弁別など設けられない「ないもの」によって、逆説的に充実しているということにもなる。

つまりアガンベンによれば「ないもの」や「消え」によってすべてが平準化されることにもなり、ベンヤミン的に、廃物の蒐集によってアレゴリーができあがるというメシア論的な救済もないのだが、そこでアリストテレスの時代から黒胆汁(メランコリーの原資)とともにアガンベンが身体循環物質、血の本質として文献的に重要視してきたプネウマ(気息)が復活する。つまりメトニミーが全体の不可能性を切り裂いて現れる「部分」(=フレーズ)であるかぎりは、その実質もプネウマだとして、ヨーロッパ中世詩を衒学的に渉猟するのだった。そこでは暗に、詩が、詩だけが、救済になる理由もしめされていたのだった。

『スタンツェ』はアガンベンのスタートライン。たとえばぼくも、ベンヤミンのアレゴリカーとメランコリカーがなぜ「同時的な」現象なのかをかんがえてきて、不連続(アレゴリー)と相互相反(メランコリー)が「空間」においては同質的に把握されるからだとかんがえてきた。ただそれだけではベンヤミンに完全に魅了されることはない。なにか思考の型、身体の型に、根本的に牽引されるものがあるのだ。

アガンベンはそういう牽引物質のひとつをプネウマと規定した。これは「空間」をかんがえ、神性へと延長するうえですごくすっきりした議論で、しかも詩作実感にも合致する。だからアガンベンをこれからも継続して読みたいという気にさせる。ただしぼくは「気息」よりも、「ここ」と「あそこ」が同時的だという点に神性をかんじ、そのことを「作文」的に翻訳するものがメトニミーではないかとおもっているのだが。
 
 

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2013年03月24日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

それにしてもアガンベンによるパノフスキー攻撃はけっこう執念ぶかい。たしかにパノフスキーが共作した『土星とメランコリー』は重厚だが、文献にひきずられる魯鈍もあった。ベンヤミン的な創意がみあたらないのだ。もっともパノフスキーの本領は「遠近」法考察と美術史のほうにあり、この点には公平でなければならないだろう。この点にこそ、ディディ=ユベルマンのようなすぐれた後継者もいるのだから。

2013年03月24日 阿部嘉昭 URL 編集












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