真似の真似
昨日アップした詩篇「酒場を素描する」中の第二聯、《ふいにとけだしていってわらい/おのれからわきでるものを真似てゆく》は、藤原安紀子さんのあたらしい詩集『ア ナザ ミミクリ』(書肆山田、13年1月刊)の一節にある、動詞「真似る」の詩的語法を拝借したものだった。藤原さんの素晴らしい一節は以下。
《〔…〕しかし分身は奔って逃げ、顔面から顛倒する、だからといって不自由はなにもない。(ぼくは)ぼくは、(くりかえし)記憶を真似ていたい。》(105頁)
せつなくて、すごくいいフレーズだ。「こだま」もある。
この藤原さんの詩集は、藤原さんらしい繊細な語感が横溢している。そこにやはり語の部分消去(蚕食)、分離、誤変換、和語的なひびきのみを盛った不明語など、アルトー語につうじるような藤原語が豊富にはいりこんでいる。詩集標題どおり、語から語の伝達(模倣=ミミクリー)がanotherになっているのだ。
しかも、篇にわかたれた構成でありながら、詩集全体が長詩として構想され、分節が有機的に連続してゆく。
結果、白頁があるとおもえば、一頁一行の詩句があったりして、その一行が次頁の詩篇の扉のようにみえたりする幻惑的なつくりになっている。往年の稲川方人の詩集編集を意識したのだろうか。一読だけではとても把握できない、空白をはらむゆえの複雑な構成で、しかもその複雑さに魅惑が同居する点は、昨年度の現代詩のおおきな達成のひとつ、望月遊馬さんの『焼け跡』をも髣髴させる。まあ、藤原さんのほうは女性らしく、やわらかな透明感を志向しているのだけれど。
再読してもっと詳細な読解を得たいとおもうが、いまは『ア ナザ ミミクリ』からもうひとつ、ぼくがノックアウトされたディテールを拾っておくだけにしよう。これもぼくのさきの詩篇が影響されたところ。
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単一が水の束や光りの棒にとまり飽きることなく嘯く
でたらめのうたも真空の音。ひとけのない窓辺をこの
目はいつも透りぬけて破る。ぼくはいま絶叫している。
ぼくはまだ絶叫で代弁し 代筆の順番を待っている。
(75頁)
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《ぼくはいま絶叫している》というフレーズには、意味内容と書かれ方(たたずまい)に齟齬がある。ただならない内容が落ち着いて書かれている分裂に、クレタ人の逆説のような、自己再帰的な矛盾があるのだ。その自覚が素晴らしい。
ところで最初に話題にした「真似の真似」は、藤原さん自身の戦略でもあったのではないか。動詞「真似る」の破格的な使用については、2010年の最大の詩的達成のひとつだった高木敏次さんの『傍らの男』中の冒頭詩篇、「帰り道」の以下のラストフレーズが意識されているはずだ。
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辻では
ぬいぐるみを抱いている女の子
市場からの帰り道を探している人
ぬいぐるみには慣れないし
帰り道も知らない
もしも
遠くから
私がやってきたら
すこしは
真似ることができるだろうか
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高木さんはこのように、動詞などにあらたな語法を発見して、読者をはげしく動悸させることがよくある。そういえば「ガーネット」69号に掲載されている高木さんの詩篇「途方」では、動詞「油断する」にうつくしい語法拡張があった。
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〔…〕
教会のバルコニーからは何が見えるのか
行きずりの私には見えない
幹が立てかけられ
何が獲れるのか
このまま階段を登ってゆけば
私に油断することができる
〔…〕
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「油断する」という動詞は、怖くて詩にはなかなかつかえない。むろん石垣りん「挨拶-原爆の写真によせて」の達成があるためだ。その最終聯を念のために書いておこう。
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一九四五年八月六日の朝
一瞬にして死んだ二五万人の人すべて
いま在る
あなたの如く 私の如く
やすらかに 美しく 油断していた。