中間性について ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

中間性についてのページです。

中間性について

 
 
中間性とはひとつの「うれい」であるかもしれない。自己決定性をうばわれて、あいまいさにたゆたう領域。たとえばいま東京で満開のさくらなども、ぼくの視覚が特殊なのか、その花がさくら色にみえたためしなどほとんどない。だいたいがしろく、亡霊的に帯電していて気味わるい。そういえば葛原妙子はさくらに銀をみた。

うはしろみさくら咲きをり曇る日のさくらに銀の在処おもほゆ

中間であることはそもそも日本語の属性で、中国伝来の漢字をそのままうつしながら、同時に和語の音を温存するため漢字から「かな」という表音文字をつくりあげたとき、視像と聴像の――意味と音韻の――男性性と女性性の――圧縮と延引の――二重性、中間性がその「文のからだ」に決定づけられた。言語的な宿命ともいうべきもので、この自覚によって詩の「よまれる速度」などを組織できるのだから、詩の作者は、日本語特有の、中間性の「うれい」と、面と向かうしかない。

ぼくは齢をとって「より淡いもの」に、このみを移すようになった。いったいに、文の地がひらがなであらわされるべき「あわいからだ」だとすれば、そこに嵌入してくる漢字はやはり概念性、図像圧縮性、イメージなのだから、それはがんらいの規定不能性にうがたれるイメージの窓、という気がしてくる。詩文は「眼もなくかなしいからだ」に、漢字のめだまを装飾的にうがつことに図像形成上は似てくる。漢字が暗喩的なら、ひらがなが換喩的だという双対性(デュアリティ)も感覚できるだろう。むろん齢相応にあわくなるということは、漢字の使用頻度が減り、和の音がにじんでくることで、いまのぼくのこのみでいえば、改行詩では一行に漢字が二、三箇所あって、行頭はひらがながいい、という感触になってさえいる。

あわい、ということでおもいだすのが、むかし「シティロード」編集部がインタビュー場所によく指定した「かひでん」(表記は失念した)でだすコーヒー。ぼくは映画の宣伝をしていてよく俳優などをともなってその店にむかったのだが、そこのコーヒーはカップの底がすけてみえるほど色がうすい――というより「さゆ」にちかく、インスタントコーヒーの顆粒を数粒いれて撹拌したような印象なのだった。

ところがいわゆるロシア・フォルマリズム用語でいう「最小可知差異」のなかに舌を設定してしまうと、そこから芳醇なコーヒーの旨さ――苦さ・酸味・あじわいが「微小のちから」となって、たちのぼってくる。にじむような味覚への刺戟に陶然とさせてしまう魔法があって、訊いてみると、アメリカンコーヒーのようにお湯をまぜるのではなく、そのような「うすさ」として細心に淹れあげてあるのだという。松田優作も「ここのコーヒーは旨い」といっていた。

あれはカップのなかのいろが中間性だったコーヒーというだけではない。なにか先行する味覚を基体に、嗅覚が、視覚が、聴覚が、触覚が、すべてあわさにむけて混ざりあい、ひとのからだをどこかに溶かしだして、自分の実存を残余にかえてしまう生成力をそなえていた。もういちどあじわいたい。店は新宿南口から甲州街道を笹塚方面に二、三分あるいた古いビルの二階にあったのだが、あのあたり高層化してしまっていて、後年はさがしだせなかった。都市開発できえてしまった名店なのだろう。

中間性のはなしだった。詩作はじぶんのおもうような中間性を、視像と聴像、あるいは漢字とひらがなで自発的につくりあげることができるが、評論となるとそうはゆかない。そこには論旨というものがあって概念性がたかまるから、どうしても漢字の使用頻度もましてくるのだ。ぼくのふるい友だちの武村知子さんなどは一時期、「むすぼれ」という和語をよく評論語の鍵にしていた。関係性の成立がそのまま結節となるようなあらたな概念がそこにうまれ、同時にそのむすぼれには、いわゆる臓器的=オーガニックな、身体的調和が指示されていた。そういう和語から評論概念を「中間的に」ふやしてゆくいとなみは、いまもあってもいいとおもうのだけれど、なかなかそれを展開するには勇気が要る。

アガンベンは『スタンツェ』のつぎに『裸性』を読んだ。短い評論的エッセイをつなぎ、そのエッセイじたい、序数を配した断章形式がつらぬかれているのをみると、形式的にも中間性をあらわした書物だったといえるが、アガンベンのいう、帰属をうしなった身体の疎外態的な単位(権力・暴力の最終的な作用客体)、「剥きだしの生」がここではたんじゅんに裸身にむすばれて、エロスと神学の概念が再検討されている。むろん裸身はキリスト教世界では「原罪」なのだが、ならばヴェールを剥いてあらわれた裸から、さらにヴェールをむくことができないのか。それはどうしようもない「剥きだし」にすぎないのか。あるいは「天国」に列聖されて「問題」から回避された身体では、生殖器はどのように思念されるのか。アガンベンのかんがえではそれは、中間性を具えられて霧のようにさえなる、ということだろう。そう、天国で表象される性器こそが、「うれい」なのだった。

いずれにせよ、アガンベンの『スタンツェ』と『裸性』をつらぬいているのは、「哲学」と「詩」を、身をもって中間化する「混合」の態度だといえる。もともと「哲学」と「詩」は一体化しているべきだったのに、いわばギリシャ以降の言説に「原罪」というべきものがあって、それで分離をしいられたというのだ。それに再縫合をかける使命をもったものが「批評」で、つまりアガンベンにとって批評は、中間化の媒体だということになる(「天使」なのだ)。彼はその骨法をベンヤミンからつかんだ。まえに書いたように、ベンヤミンのなかにアレゴリカーとメランコリカーが分離不能に同居していることが、アガンベンにとって決定的だったのだとおもう。

ともあれ、ぼくにとっても「中間性」がものごとに惹きつけられる指標となる。その意味で詩はおそろしい。たとえばかなと漢字の混在を一瞥するだけで、いわゆるベタかそうでないかが、即時に把握されてしまう。むろん漢字はおぞましい。
 
 

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2013年03月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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