3月末にするお知らせ
本日は昼に『映画監督 大島渚』の再校紙がとどき、それに取り組む。三時間ていどでひととおり見渡し、本文については校了。コンビニにゆき、返却郵送の手続きをした。版元が「急ぐ」といっているのだが、実際の刊行は5月か6月、とのこと。
この本、写真(スチル)を入れない、ということになった。まあぼくの文章はこまかい細部に分け入ってゆくので、「代表スチル」を抽象的にうたうのもおかしい。スチルを入れ、それに正規の版権使用料がかかるとすると、おそらく定価も500円くらい、はねあがる。本が売れない現今、スチルなしの映画書を成立させるためには、文章で画(の推移)をしめさなければならない。自己採点ではそれができているとおもう。あとはDVDでごろうじろ、というわけだ。
去年末、ちからをそそいだ長稿がふたつ、このところあいついで刊行された。どんな原稿を書いたかというと――
ひとつは北大大学院文学研究科、映像・表現文化論講座の機関誌『層』6号に寄せた、「「女の子写真」と『OLの愛汁』」。田尻裕司監督の伝説的な傑作ピンク、『OLの愛汁』が、いかにそれ以前の「女の子写真」ブームを自己組成しているかを、「写真→映画」の手順で詳細に分析した。援用したのがドゥルーズとバルト。
いまひとつはアーツアンドクラフツ刊『吉本隆明論集 ――初期・中期・後期を論じて』に寄せた、「吉本隆明の悔恨」。吉本思考には厳密な一貫性があるという瀬尾育生さんの吉本への総括に、「悔恨の契機」をやさしく(?)上乗せしてみせたものだ。一貫性のほうを論証するのが、『言語美』と『最後の親鸞』『母型論』の連関だとすると、悔恨の具象物となっているのが『記号の森の伝説歌』(まあ、これは手短すぎる言い方ではあるのだが)。
で、これら「映像」「哲学=詩」、ふたつにまたがる論考にたいし、ぼくは共通した思考ツールをつかっている。それが、換喩=メトニミー論だ。「映像にとって換喩とはなにか」「言語的創造にとって換喩とはなにか」、いずれかに興味のあるひとに、上のどちらかを一瞥していただければとおもっている。
どちらの刊行物も、東京ではジュンク堂など大書店で入手できるはずです。以上、自己PRでした。
読みかけのアガンベン『バートルビー』はゲラの到着で順延になった。そのまえは、山崎ナオコーラの二冊を読んでいた。ぼくは「少女マンガ」を蔑称にもちいることがないが、それを前提でいうと、彼女の小説は少女マンガ的だ。余白と行替えから、一冊の小説が一冊のコミックと同等の時間で読めてしまう。その意味ではナオコーラの小説は、詩集の崇高な敵でもある(流通論的にいうと)。