西村晋也・Sweet Sickness ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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西村晋也・Sweet Sickness



一週間ほど前に観た映画、『Sweet Sickness』が妙に心にひっかかっている。監督は映画美学校での瀬々敬久プロデュース、「エロス番長」シリーズのうちの一本、傑作『ラブ キル キル』を撮った西村晋也で、この『Sweet Sickness』は例の青春Hシリーズの第29弾。記憶がうすれかかって危ないが、書いておこう。

シーツかなにかの洗濯工場でベルトコンベアでの仕分け作業の深夜バイトをするのが廣木隆一『RIVER』の小林ユウキチ。彼がバイクで帰宅すると(作品は海を舞台にもっていて、バイクは海沿いを走る)、姉・細江祐子の部屋を覗く。細江が寝ていると安心すると、小林が就寝、今度は姉が起きて、弟・小林が起きたときのための料理をつくり、出勤してゆく。当初、作品は、そういうふたつの身体の、家屋内の明滅を静謐にしるしづけるだけだ。

のちに暗示されるが事故かなにかで他の家人がみな死んだ一軒家に姉弟は二人暮らしをしている。その家を基体にみると、家は多くの時間、茫漠と、姉か弟のどちらかを静かに、無為に抱えこんでいるだけになる。となれば、姉弟という人的要素のほかに、家そのものが作品の主役なのだ。西村はフィックスを中心に、人物の移動ごとにすごく丁寧にカットを割ってゆき、伝統的な昭和四十年代の家屋がしずかながらも海辺ちかくに息づいているようすを捉える。外界からはいってくる「ひかり」に、家の空間が微差をしるしづける姿がそうしてあとづけられるのだが、その作法から、いずれはハネケの『愛、アムール』のように、家空間の「空舞台」をクライマックスにもってくるのではないか、とおもわせる。

黒目が渇き、なにかをいいたそうでいえない、傍観の場に置かれる小林の眼が「痛い」。少年期に生じた両親の消滅、しいられた姉との共生――そんな運命が手伝って、弟はシスターコンプレックスという以上に、存在の芯に「姉依存」を抱え込んでいる。この謙譲の美徳にあふれた映画では、彼らの身体的距離は当初、保たれている。だから作品前半で唯一、身体接触の生じる、細江のリクエストにより、その肩や背中に、小林がマッサージするシーンが、妙に生々しい余韻をのこす。山下敦弘『ばかのハコ船』に出演していた細江の存在感もうまく要約できない。横顔がピノキオのようだ。さらさらと背中まである長髪が、把握しにくい存在感をつたえている。

小林にはステディ(片宮あやか)がいるが、姉に告白したところでは「永すぎた春」で結婚に踏み切れない。経済的な自立ができていないからと予想すると、小林の「姉依存」が片宮にも問題視されていると、小林-片宮の、待ち合わせの神社を舞台にしたやりとりからわかってくる。姉・細江もそうした小林を気に病んで、適齢期に突入してだいぶ経つのに結婚に踏み切れない。姉は、恋人はいないと弟にいう。ところが彼女には結婚の約束を交わした同僚の恋人がひそかにいて、その二人が連れ立って歩くのをみた、と片宮が小林に語ったことから、とうぜん姉-弟の家での「不在を分け合う」しずかな「平衡」がかたむく気色がうまれてくる。

市川崑『おとうと』にもつうじるような、古典的な「姉弟もの」の結構で、とうぜん看板=青春Hシリーズの、エロチックな動力からは逸脱している。だからそれがどう打ち破られるかでサスペンス感が醸されるのだが、作品が用意するのは、「不在の応酬」と、そこから数学的にはじきだされる「双対性(デュアリティ)」だった。その作法も古典的だが、そこにこそエロス表現がまきこまれる。

途中の展開を端折ると、姉は婚約相手を家に招いて弟に紹介する。弟は感情を表にしないながらも不穏な気色を隠さなくなる。しかも浜辺で、自分と姉はセックスをしたことがある、と虚言を吐く。これが虚言かどうかは当初わからない。姉・細江が婚約者をまえに狼狽して泣くだけだからだ。そののち、婚約者が帰り(その家は「空漠」をたもつために、がんらい二人以上の在宅を受け付けない)、なぜあんな出鱈目をいったのかと姉が詰問することで、弟の暴露が虚言だったという判断になる。

姉の部屋に入ろうとする弟と、そうはさせない姉の、扉を道具にしての攻防。だがついに闖入、はずみで姉を押し倒してしまった弟は、しでかしていることに戦慄し却って点火されたのか、細江のくちびるに自らのくちびるを「乗せる」。姉はそれを受け入れたかにみえたが、くちびるが離れると泣き笑いする。相互が「からだ」をもつことの「重さ」を笑うしかないのだ。笑うと行動原理が奪われる。「くりいむれもん」的な遊戯類型にはない「行動の間隙」が胸をうつ。つまり「切なさ」と「凌辱」を野合させようという意図は、脚本も書いた西村に皆無なのだった。

身体の相互接触は、この映画では双対性を形成しない。ところが「かたち」は双対性を形成する。婚約者の参加も念頭に置いていたが空振りになった「すきやき」を仕方なしに二人で食べる姉と弟。食卓に向かい合う二人を横方向からカメラはフィックスで捉える。すると、画面向かって右の姉が右利きなのにたいし、向かって左の弟は左利きで、箸をあやつる相互の腕は画面奥行に畳みこまれる。相互のうごきが双対的なだけではない。現れているからだが腕の奥行をもつことで、からだそのものが謙譲性において無防備になっている様相もまた双対的なのだった。からだは、現れては消える――物語とは無縁にそんな実感が観ているこちらを襲う。

物語はフックを用意している。画面にずっと登場してこないのに話題にのぼる物語上の「翳」を用意するのだ。ダンス練習場で見た、誰だったかおもいださない女の子として最初、姉に語られたその対象は、やがて片宮の示唆により、かつての小林の親友の妹だったとわかる。その親友の家庭は小林の家庭と「斜交いの同型」で、こちらは「兄妹」の二人暮らしだった(これも「かたち」の問題)。その兄が死んで(自殺とおもわれる)のこされた妹、というふうに、会話の進展のみで対象は来歴をくっきりさせてゆく。

あるとき――その妹が仲間とのストリートダンスの練習をしているすがたを小林は見やり、練習がはねて仲間が帰ってものこっている彼女をすこし離れた距離から見守っているものだから、見られている対象は「何だろう?」となる。小林は相手の名前を呼びかけ、相互が覚束ない知り合いだったと判明すると、その少女の普段の整序されていない日常を物語るかのように、即座に少女は「飲みません?」と切りだしてくる。

飲み屋ののち、ラブホテル内部に舞台が移る。躊躇の気配がある小林に向け、少女は錠剤を差しだす。「いちばん好きな相手とセックスしているように錯覚できるクスリなの」といったことをいい、二人はそれを服用する。押尾某の事件を知っているから何か妖しい動悸が生ずる。二人が出会った日は、細江が結婚式の前、弟との二人だけの最後の晩餐と小林にいいふくめていた日だった。姉は弟にケータイをかけるが弟は出ない。弟は葛藤のなかで、その少女に直面しているのだった。

少女を演じるのはAVモデルの綾見ひかる。少女っぽい挙止と口跡、細身、そして桜いろの乳輪をもつ、不釣合いに張りだした乳房が、心を射抜いてくるような類型だ。姉の背中まであるさらさらした長髪だけに「性徴」を押し込んでいたこの謙虚な作品は(その点では小林との長い付き合いの片宮さやかも「作品」の結構を補足する媒介に徹して「性徴」をもたなかった)、ここで序破急の「急」にいたり、作品の軌道をずらす。小林は綾見とのセックスにさいして「好きなひと〔すなわち「姉」〕の結婚をうべなう気持になっている」と、対象を明示せずに語っている。「そのひとのことは、もう忘れるんだ」と。

セックス場面。とりわけ綾見の騎乗位がはげしく、はげしいぶんだけ痛ましい。彼女は泣く。錠剤が効いてきたのだろう、小林は「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と連呼される。小林は自分のアイデンティティに傷をつけられながらも、懸命に彼女の虚無的な熱情に「応える」。その綾見の裸身が、姉・細江の裸身にすりかわる。小林の主観に生じている異変。画面は性的刺戟というよりも悲哀を湛え、その水位を上昇させてくる。ただしフィニッシュまでを作品は描写しない。

ラブホからの朝の帰り。会話の主導権をにぎるのは綾見だ。彼女はまず告白する。親が死に、兄と二人だけになって、毛布にくるまり寒い夜をしのぐうち、あたしは兄とセックスをしてしまった、と。兄は死んだが、あたしはそのときの兄を「忘れないために」、いろんなひととクスリをつかってセックスするのだ、あなた〔小林〕が「お姉さん」を忘れようと懸命なのもわかるけど。秘匿されていた小林の懸想相手がつかまれている。ということは、おぼえていなかったが、小林にもクスリが効いて、綾見にたいし「姉さん」と連呼したはずなのだった。心中でたぶん照れている小林。ところが恬淡にみずからの不可能な願望を処理してじつは気概を崩していない綾見には、すでに救済があたえられている。この二人はいずれ、ふかい仲になるだろう。

クスリが効き、本心がばれるということ。おもいだしたのが、第二次大戦下の香港を舞台に抗日と青春に明け暮れる若者の三角関係を描いたレオン・ポーチの傑作『風の輝く朝に』だった。イップ・トンというアジア的な美少女を主軸に、周囲からは公認の恋人、アレックス・マンがいて、二人を見守る心優しいチョウ・ユンファがいる。アレックス・マンには男気はあるが無鉄砲で短慮、存在は粗い。対照的に何ごとにも控えめで思慮ぶかいチョウ・ユンファ。

そのクライマックスシーンではアレックス・マンが瀕死の重傷を負い、苦痛にのたうちまわっている。看護を申し出るユンファにたいし、アレックスの恋人のイップ・トンは恋人の責任だと自分主体の姿勢をくずさない。アレックスの苦痛を除くためイップは果敢にも阿片煙管から烟を吸い、それをアレックスに口移しして麻酔をおこなう。ところが麻酔により、隠された心情ももたげてしまう。彼女は「われ知らず」、じつはアレックスののちに出会っていらい心を移していていたチョウに、阿片に自制を消され抱きついてしまったのだった。ほとばしる思い。観客もそうなることを望んでいたのだが、そうした真の関係成立に、血と苦痛の悲劇が介在している点が見事に切なかった。イップ・トンという「規律」「奥行」をもったアジア的美少女だから成立した、凄愴な「乱脈美」だった(泉鏡花=坂東玉三郎『外科室』とは逆の発想ということになる)。

西村晋也『Sweet Sickness』に話をもどそう。煽情的なエロス表現では、姉弟、兄妹といった近親相姦は簡単に到達できる目標となる。そこでは血縁関係は主情性を格上げする機能的な媒質であるにすぎない。結果、「姉弟」「兄妹」という血縁上は斜めの「対」が侵犯されて、性愛的な双対へと浮上していっても、それはからだと心情の浮上であって、不可能性の侵犯とはみえないのだ。西村監督は、不可能性を温存する。だから「姉を慕う弟」と「兄を慕う妹」の双対によって、本来あるべき姉弟の性行為を代位させた。このときまぼろしの次元で、血縁の基軸が軋み、その基軸に一瞬だけ、細江祐子の裸身が上乗せされるという「算術」が繰り広げられるのだ。むろんこの算術は前面に出ないから謙譲性をたもっていて、結果、抽出されるのは、「かたち」が幻惑的にうごくなかにある双対性のみ、ということになる。侵犯が侵犯にならないことの侵犯。そこに「近親相姦」テーマがかさなって、それは非現実の次元で活性化されるのだ。脱ポルノグラフィックな、見事な戦術というしかない。

姉・細江祐子と、弟・小林ユウキチの間柄は「運命的」「選択不能な」双対だ。いっぽう小林ユウキチと綾見ひかるの間柄は「半・運命的」「選択可能な」双対といえる。ところが多くの近親相姦ポルノが誤っているが、映画的に最もうつくしいのは恣意的、偶有的な双対なのだ。映画はそれを過たず披露する。姉と約した最後の晩餐を打棄り、綾見と愛を交わして遅い朝帰りをした小林。姉は翌日の式に向け、準備のため結婚式場に向かってしまったらしい。姉の部屋の扉をあける小林。すると壁にかけてある白いレースのウェディングドレスと、白いレースカーテンが、換気のためにあけられた窓からの風により、「ともにそよいでいる」。この偶有的な双対性のうつくしさはなんだろう。「ともに」「そよぐ」ということが偶発の域に伸びて、それでゴダール『彼女について私が知っている二、三の事柄』のテーマ=《「ふたつのものは同時に映せない」が、そのことで「心情はそよぐことができる」》が、こんなにあっさりしたショットによって包括されたのだった。その画柄は小林の主観という契機をもっていた記憶があるが、むろん空ショット的だった。小津『晩春』の終景がべつのかたちで継承されている。

「家」が主体で、ラブホテルの空間だけが家の亜空間としてつつましく編成される作品だから(豊田利晃『空中庭園』のようだ)、むろん結婚式場の実際は『晩春』どうよう描出されない。小林も臨席したと間接的にわかる。あとは空舞台の家内部へのショットがつづき、そこに弟の後日譚を語るナレーションが入るだけだ。家は姉が結婚して出てからさらに空漠になって、結局は売り払ってしまった、古いので取り壊され、いまは別の建物が立っていると。そう、「家を売り払った」という述懐が、「家の(最後の)現存」の画にかぶるのだ。未来-現在「双対」の運動がここでしずかに起こっている。時制の双対。それはむろん人間の心情のなかにしか結像されない。そのことによって、それは「愛」を見やる視線をも擬制することになるだろう。

傑作だった。4月6日から12日、ポレポレ東中野にて、一週間のレイトショー公開。


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2013年04月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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