ニール、七二年
【ニール、七二年】
みつめあうことがそのまま鏡像の交換となる
そんな、ながいそれまでがあって
まなざしをあたえまなざしをうけるたがいでは
むごたらしく来歴がむしられてゆくのだ
それでもたとえば窓からみおろして知った
駐車場へと早足で逃げるきみのすがたは
どんな像の台帳にものこっていないだろうから
これをおもいえがき交換に歯止めをかける
あんなふうに脚と腕が交互したきみの悔いとは
からだからでてきた誰のむすめだったのか
ふだんならCAACと回帰してゆく音型に
歌のくぼみと水のたまるあたたかさをみていた
グラジオラスの花序をやがてたのしむために
ひとつの球根を春とし、植える手すら春としたのだ
それでも「この文は贋である」という表明が
きみのすわるうきくさの椅子をもつれさせ
しいられた中腰がしぐさのエポケーとなって
どこかに行こうとしても行かないひとにかえる
ひかりのたまる場所がからだだったんだろう
ひじの内側までもが笑顔そのものにみえた
はだのおもてでかまえの枠をつくってみせる
きみの気配のための、きみのみえない骨が
うつろにひびく木琴になるきみの通路だった
ゆく廊下にも音楽をきいていたのだった
ひとはだれでもそのかみに廊が縦横していて
たてものにすぎないから、在る窓をかんがえる
その窓を、息をかけてみがく日雇いみたいに
手にもつ布がさきざきへのあまりになってゆく
それでもならぶ窓からは春をつげる木の花をみた
駐車場へと早足で逃げたのはぼくかもしれない
これはみつめあうことの風の日のロンド
ひかるきみをぼくとのみいうための