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石原吉郎とバートルビー ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

石原吉郎とバートルビーのページです。

石原吉郎とバートルビー

 
 
【石原吉郎とバートルビー】


このところ、廿楽順治さんが職場の昼休みに書いている、思索にとんだミクシィ日記がおもしろい。石原吉郎の詩が「韜晦」「暗喩」といえるだろうかという検証からはじまって、いまではハイデガーなども動員されて、手軽に書かれているようにみえようとも、複雑で厳密な詩論に達している。

石原の詩における「馬」「花」「くほみ」などはなぜ抽象性にかがやくのか。ぼくは石原詩を論ずるのに、その書かれ方が閑却できないとおもっている。石原はたとえば散歩中に詩の第一行をおもいつくと、つづきを脳内の頁に書いてゆく。そして「記憶できる範囲」で一篇が終わり、それを帰ってから筆記してゆくという。そこでうごいているのはまず「濾過」だろう。それから同語を駆使したリズム(これは記憶適性にかかわる)。ところが石原の「身体」が詩行連鎖をゆがませてもいる。フレーズそのものは一旦脳内に書かれるとうごかない。

この石原の、詩への「おもいかた」というのは、刻々の「部分」が連鎖していって「全体」をなしうるかどうかの賭けにもなっている。捨象そのものが詩作の動力で、だからそれは「刃の力」をもつのだ。石原の語調の特質は、むろん「断言」。この「断」にも「刃」が入っていて、ことばは世界を斬り込む「角度」として、それ自体は不全のままに(つまり説明不足なものとして)ある。それで「韜晦」がいわれることにもなるが、石原にとっては不足こそが全体であり、その全体は明視的なのに可視性を奪われる峻厳な逆説のなかにある。

つまり石原の詩作の動力は換喩だというしかない。それは不可能性と直結している、しかも「身体の」「声の」換喩であって、そこではツェランとの同質性も感知される。部分、寸断、それでも軋んでいる脈。よく比較されるが、吉岡実の詩の型はあるときまでは暗喩だった。その暗喩が飛躍と恣意と物質性によって臨界を超え、指示性をうしないフレーズのみ浮き上がる「逸脱」を鮮やかに演じていた。結果、石原が「不可能な換喩詩」であることの隣接域に、吉岡の「不可能な隠喩詩」が置かれることになる。これらが「荒地」を挟撃したものだ。吉岡の書き方は、「遅さ」「逡巡」「厳密」のなかで、ことばと像の「藁」をつかむことから生じる。結果、石原の詩の並立組成が光束なのと対比的に、吉岡の詩ではそれが藁束になっている。だから土方巽に親和してゆく。

あるときぼくは廿楽さんの日記の書き込み欄に以下のように書いた。AはBであるという断言は石原の場合、暗喩をふくんでいる常識があるが、廿楽さんはそれに異議を呈していて、それに同調、ぼくが書き込んだのだった。



創作実感からいうと、AはBだ、という直言は、いまはストレートすぎて恥しいんじゃないかな、AとBがどんなに隔絶して、あいだにスパークが起ころうと。つまり、A、B、C、D…という視像なり聴像なりを「斜め」に配置して、それが或るゆがみを形成するようフレーズがつながれてゆく。このときの文脈のきしみこそに、最も作者の意図した詩性がもられる。もう一個。このA、B、C、Dは一見「縁語」なんだけど、それは「隣接性」とおなじで、作者の想像力のなかだけにあり、一般には縁語性とみとめられない、といった領域にねらわれることになる。通常、詩作前段階のエクササイズとは、自身だけに適用されるこうしたアナロジーや隣接性の台帳を無意識のなかに蓄積してゆくことだとおもいます。ということでいうと、客観的な「根拠」などない。私的な蓋然性と傾向があるだけなんじゃないか。賭けられているのは、身も蓋もない言い方になりますが、言語的な人生です。



暗喩が類似から次語・次行・次節を創造(想像)するのにたいし、換喩が空間的隣接からそれを創造(想像)するというのは一般論だ。実際はフレーズ連鎖の「折れ線」がそれじたい空間化して空虚な容積をつくろうとするうごきそのものを――つまり「部分」をさぐってゆく手つきがフレーズになってゆく現前そのものを、換喩的な運動(現れ)というべきだろう。吉本隆明の分類によれば、自己表出性を品詞別にみた場合、感嘆詞のつぎに自己表出性がたかいのが助詞ということになるが、日本語の換喩詩をみわけるひとつの判断は、助詞の軋みではないだろうか。石原吉郎は、助詞の用法がゆたかで独自着想に富んでいる。助詞は創作前段階の「内臓的衝動」(吉本)であると同時に、フレーズの折れ線をつないでゆく接着剤でもあって、そこに「みえない負荷」がかかるのが、石原詩なのだ。



数日前に月曜社刊『バートルビー』を読んだ。最近はよくある構成なのだが(ブランショ=デリダの本など)、ハーマン・メルヴィルの中篇「バートルビー」と、ジョルジョ・アガンベンの意欲的な論文「バートルビー 偶然性について」と、翻訳者・高桑和巳の詳細な論考「バートルビーの謎」の三部構成で本ができあがっている。中篇「バートルビー」自体は、カフカの多くの小説、魯迅の「鋳剣」などとならぶ寓喩小説の極北といえる。ある法律家が雇った書記生バートルビーが、書記業務を実直にこなしながら、それ以外の(些少な)仕事の依頼をうけると、「しないほうがいいのですが」という(この返答は原文ではやがて、I prefer notという簡略形に固定される)。

このことばがやがて法律事務所全体の気分にひろがり、同時にバートルビーの生の芯にも蚕食をおこなってゆく。法律家は一旦、「無為」への熾烈な下降者バートルビーから逃げ出すのだが、最後はその死をみとる。

履歴の不明だったバートルビーのたったひとつの前歴が最後に判明する。彼は宛先不明の郵便物を処理する下級局員だった。《死んだ手紙は毎年、荷車に何台ぶんも焼かれている。〔…〕希望もなく死んだ人々に宛てられた希望のこともある。〔…〕これらの手紙は死へと行き急ぐ。/ああバートルビー! ああ人間!》。

「バートルビー」は神山睦美さんが最近の見事な災厄論のなかで、アガンベンの「剥きだしの生」、ナチス収容所の「ムスリム」と呼ばれたユダヤ人とからめて省察されている。ぼくが「バートルビー」を読まなければならないと最初におもったのは、ドゥルーズ『批評と臨床』に見事な「バートルビー」論があったからだった。ところが現状はこの月曜社刊の『バートルビー』でしか翻訳が読めない。

ドゥルーズが、バートルビーがイエスを暗喩したとしたちいさな、しかし重大な誤りをアガンベンは突く。つまりアガンベンはドゥルーズにたいし、「折れ線」をつくるような換喩的な展開を果たしてゆく。「書記」とはなにかという原理的な考察がアリストテレスの「書板」からはじまって、潜勢力と現勢力の比較考察が展開されてゆくなかで、アガンベンは「非の潜勢力」というバートルビー的事態をつかみきる。《偶然的なものが、存在しないことができるという潜勢力(つまり非の潜勢力)のすべてを手放すとき〔…〕はじめて、偶然的なものは現勢力という状態へと移行することができる》。

実際は「潜勢力」「現勢力」二項の考察は、ドゥルーズの『差異と反復』にも綿密に考察されている。たとえば《潜在的なものは、実在的なものに対立せず、それ自体ですでに、まったき実在性を所有している》。ということは、アガンベンの「バートルビー 偶然性」はドゥルーズの『差異と反復』をつかって、ドゥルーズの『批評と臨床』中の「バートルビー、または決まり文句」を「書記」しかえたものなのだ。換喩が「発想礼賛」にみえて実際は主体の抹消をふくんでいることは先のぼくの書き方でわかるとおもうが、ドゥルーズという隣接域への、アガンベンの換喩的な介入も緊張感にとんでいる。アガンベンのしていることは、批評の換喩化なのだ。それは彼のいう「批評の媒質化=天使化」とおなじでもある。

『スタンツェ』によれば、換喩の刻々の生成単位である「部分」は、現前しながらも不可能なものだった。「部分」は、実際は隣接域を延長し自己展開することでは癒されない。そこには「部分」を置くことで、全体を「I prefer not」する、減退の契機がふくまれている。石原詩の正体もそれだった。このとき自己存在の部分性に執着することで、全体性が抹消されてしまう予言的な脅威がバートルビーなのだった。つまり換喩の死がバートルビーということにもなり、そこに衝撃があって、メルヴィルはそれを寓喩化している。中篇小説「バートルビー」の構造は、このような複層といえる。「I prefer not」のようなことばは実際いろいろある。アガンベンは見事に、「より以上ではない」という慣用句も採取している。

ともあれ、潜勢と現勢の問題を、換喩にひきつけて再考察するという自分の課題が生じた。



昨日は「図書新聞」用に、石井裕也監督『舟を編む』評を書いたほかは、詩篇「ニール、七二年」を書いてネットアップした。フェイスブックでの「いいね」数はふだんよりすくない。たぶんタイトルに幻惑されたのではないか。ランディ・ニューマンの「ルイジアナ、1927」みたいなタイトルを発想した。むろん「ニール」とはニール・ヤング。その1972年はアルバム『ハーヴェスト』の年だ。つまり『ハーヴェスト』収録曲の歌詞に「ありそうな」(潜勢的な)フレーズを構成して、換喩的にラヴソングを構成したものだった(映画監督の西村晋也さんが「いいね」をつけてくれたが、彼の傑作『ラブ キル キル』ではアシッドフォーク論も展開されていて、音楽好きが明らか――だから詩篇の構造を見抜いてくれたのだろう)。むろんこの年齢になって実人生にラヴ・アフェアがないので、そんな迂回的な方法でラヴソングをつくるしかなくなっている。
 
 

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2013年04月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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