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入不二基義くんの連載 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

入不二基義くんの連載のページです。

入不二基義くんの連載

 
 
昨日は入不二基義くんから送られてきたコピー、講談社『本』掲載の「あるようにしてあり、なるようになる ――運命論とその周辺」の連載第九回分までを読んでいた。読むと気づく。これは入不二くんとぼくが高校以来の再会を果たした、数年前の立教大学での入不二くんの講演を、さらに緻密に書きついだものだった。「仮定」→「反証」→「《真》の提起」と論理が進展するうち、思考がどんどん精密化・微分化・厳格化・執拗化してゆく、いつもの入不二くん的な流儀が、なにかおそろしい成熟を迎えているとおもった。

国木田独歩の「運命論者」を最初の話題にして、入不二くんは、運命をめぐるトリアーデ(三者関係)=「人間の因果(社会)-自然の因果(自然)-運命(形而上)」を摘出する。その第三項めが、いわばその自体性によって神秘(最大の思考困難性)をつくりあげることを、ウィトゲンシュタインを援用して語りだす。ところがその第三項めは、それを批判しようとしたり同調しようとしたりした途端、みずからもそこにまきこまれるという意味では、自己と世界の分離不能性、その結び目に定位されている対象設定上の困難なのだ。

入不二くんの論理の懐刀は「排中律」だ。Pを措定すれば、論理的に非Pも追措定でき、Pと非Pの集合的な加算が「全」になる、というギリシャ論理学における思考の一道具を、アリストテレスにならって運命論にまつわる省察に「まず」適用して、そのきしみを算出するのだ。

もともと排中律は抽象性と「議論領域」の閉鎖性を前提している。P=黒色とすれば、P+非Pはむろん「全色彩」となるが、たとえばぼく自身の設問をしてみよう――Pを「愛している」としたらどうか。「愛している」と「愛していることはない」を加算しても全存在にはならない気がする。経験的には、そのどちらでもない中間項のほうが世界に充実していて、この充実によって、逆に最初の措定である「愛している」が感情の恣意的な極点だということがあかしされ、排中律ではなにか世界内を移動してゆく通常の人間のいとなみが消失してしまうような感触になる。

むろん「愛しているもの」は、意識を研ぎ澄ませばひとつの全一的な集合をつくることができる。ところがそのかたわらにはたとえば「生理的に拒否できないもの」「ふとおもいだしてしまうもの」「思考になんとなく使用してしまうもの」「性的に執着をおぼえるもの」などなどが、非「愛している」とは別の系で世界内部に無秩序に潜在していて、それらは「愛しているか否か」という一回一回の審問によって、眼前に同一系として、あるいは隣接系としてひらけてゆくものだといえるだろう。問題は隣接系のほうで、世界は仮定それ自体ではなく、仮定の重ならない(ズレる)範囲のほうが潜在的であり、また潜在的であるゆえに実在的なのだと、ぼくならいいかえる。これがいわばぼくの換喩詩学の根幹にある世界把握だ。さて入不二くんの意見をきこう。

《排中律を介して透かし見える、この「全一的で潜在的でもある全体」とは、何なのだろうか。それは、「現実」である。というのも、現実こそ、その外部が原理的にありえない「それが全てでそれしかない」ものであり、現実こそ、ありありと現れているもの(現前するもの)だけではなく、現に働いているが顕わにならないものまで含む全体だからである》(連載第三回、傍点省略)。

入不二くんは、排中律を現実認識の根幹に置くことに以下のように疑義も呈する。《この「Pではない」という「欠如」は、二重の欠落によって成り立っている。一つは「Pの欠落」であり、もう一つはP以外のものによる充実をカッコに入れて無視する「関心の欠落」である。「Pの欠落」とは、「P」が成立していない(欠けている)ことであり、実は「QまたはRまたはSまたは……」によって欠落は埋まっているにもかかわらず、その充実を棚上げにして関心の外に置くこと(無関心)である》(連載第四回、傍点省略)。

ひとは排中律的な思考方法をとることもあれば、なにか厳密な抽象性をかんじそれを忌避することも経験的にはあるだろう。たとえば措定Pを「私」としたとき、非Pは私を減算した「全」空間となり、P+非Pの「全」と、非Pの暫定的な「全」の差異が、卑小な「私」でしかないことを同一律のもつバカらしさともわらうからだ。むろん「全」空間は、刻々と移動してしか実際は把握できない「なにか」にすぎない。

ところがそのような未踏領域は、それを「欠如」というか「空白」というかで、意味合いをかえる。入不二くんが例にだすのはリング型のドーナツ。みためにドーナツは穴状の欠落をもっているが、それは、「ドーナツがない」という欠如型の認識もうめば、「穴がある」という空白型の認識もうむ。ぼくのメランコリー論でいうなら、「喪失」とは同時に「喪失を獲得すること」であり、結局は「喪失」と「獲得」が相互溶融して心の容積をつくってしまうことがメランコリーの原資となるということがあるし、また詩的にいえばドーナツを食べることの本義は、ドーナツそれ自体ではなく、ドーナツの内側の欠落を食べることでもある。

入不二くんの立論のすごいところは、世界の潜勢態(可能性)はそれが主観にとって未経験であるかぎり、《「欠如」と「空白」という二種類の「無」が互いに異なりつつ協働することを、排中律は教えてくれる》(連載第四回)とすることだ。それ自体が「まだない」ことと、無関心によって対象化されていないことは相互に織り込まれて、これら「欠如」と「空白」がかさなったときに、ある「厚み」を形成するといっているのだ。つまり一見すると、「無」+「無」の足し算が「有」になる逆転があるとおもえる。次に引く第四回の最後の入不二くんの文章は、おそろしい透徹に達している。とりわけ最終段落の詩性は只事ではない。



観念論側から、実在論側へとはみ出るものが一つある。それは、空白についての「思考」である。「空白は経験することができない」とは、経験の範囲内に登場しないものとして、「空白」を思考できているから言えることである。この「思考」自体は、見たり聞いたり等の「経験」からは、はみ出さざるをえない。そうでないと「空白」もまた「思考=経験できる」ものになってしまう。この「思考」は、観念論的な「経験」の範囲からはみ出して、実在論側へと接近する。

しかし、その「思考」は、実在論側からすると、むしろ逆に観念論側に一歩接近したものに見える。というのも、現実は端的にベタであって、「空白」をいったん思考したうえで無いものとするという「思考の手順」自体が、余計なものだからである。現実は、そのような「思考」からも無縁なのである。こうして、「思考」は、実在論側からも、余計なものとしてはみ出して、観念論側へと接近する。

空白についての「思考」は、どちら側から見てもあちら側に見えるという「中間性」を帯びている。これが、「空白の非存在」をめぐる「厚み」の発生である。

(改行単位を、行空白を挟んだ段落単位とした。傍点省略)



こうして「中間性」が登場した。ぼくなら中間性を組成上の混淆や溶融にみとめて物質としてあつかうところだが、入不二くんのそれは位相学的で、定義の回転性であり、空白のいわば活性材料なのだった。もうここでわかる。たぶん中間性が経験を分岐する場に参入することがいわば「運命」の産出であって、このとき主観と対象(場)に本質的な弁別ができず、主観も場もそれ自体だというしかなくなるのではないか。それが、排中律がぎりぎりまで諸関係を研ぎながら、ついにそれが失効することで、能動が生ずる非「議論領域」へと転じてゆく。それで世界の潜在性の肯定が、「運命論」をたちあげることと同時的になってゆく。もんだいは、世界の潜在性と「運命」がおなじ場をかさねていて、そのおなじ場とはさらに隣接関係の束だということではないか。

連載第六回以降から、とうぜん入不二くんの主フィールド「時間論」が導入されてきて、過去は変改できないという宿命論の硬直から離れるために、「時間の等質的な推移」と「時制的な視点移動」が相互によって規定されてゆくような「中間性」が掘り起こされはじめる。偶然と必然との差異はなにか。アリストテレスの運命論批判はそこに排中律を導入し、「現実的な必然性」が他の偶然性を廃棄したことに負っている様相に照明をあてるが、もんだいはそれを未来時制にも導入できるかどうかだ。ここで満を持して、「海戦が明日あるだろう/あるいは明日あらぬだろう」の二項は(それが「全」をなすゆえに)「必然」である、というアリストテレスのかんがえが審問に付される。海戦は明日、「ある」か「ない」のどちらかだということは明日に判明するのだから、適用されている排中律も意義をもっているが、もんだいは、海戦があることの「真」と、海戦がないことの「真」が、海戦の生起の事実以外に「排中律」をつくりあげている点に「偽」があるということだ――と。

この点を入不二くんがどのように捉えているだろうか。《しかし、この運命論批判は、ほんとうに成功しているのだろうか。批判は成功していないだろうと、私は考えている。失敗の原因は、必然性・排中律が「論理」だけではなく「現実」をも巻き込んで働くことを、十分に捉え切れていないことにある。また運命論側の「時間の等質的な推移」+「時制的な視点移動」という考え方に対して、批判的な視線を投げかけていないことも、原因であると考えられる》(第七回)。

以後の展開は、そのさきの連載での、入不二くんの文章に注視することにしよう。入不二くんは高度に抽象的な哲学者だが、この連載が「われわれがわるいから罰をうけた」といった心理的な因果論から、世界を再起動させるものとして運命論を分離したいという意図をもっている点は第一回連載の行間ににじんでいて、むろんそこには東日本大震災と原発事故にたいする想起があるにちがいない。このとき連載タイトル、「あるようになり、なるようになる」がぼくには不思議なひびきをもっているようにみえる。親鸞的にいえば「あるようにある」とは「自然〔じねん〕」であり、「なるようになる」とは「他力」だからだ。連載は総計数を何回に設定しているのかわからないが、仏教思想のほうにやがて肉薄してゆく目算があるのだろうか。

昨日アップしたぼくの詩篇「ひるまごえ」は、中間域をわたるときの「厚み」の感覚が、身体にどのように「充実」するかを主題にしたもので、むろんこの入不二くんの連載を読んでの感銘が化身したものだった(第六回めまでを読んだとき、中断して詩作した)。そこに赤尾兜子の超絶句《野蒜摘み八岐〔やまた〕に別れゆきし日も》をかさね、全体をさらに「中間化」した。中間に参入して、「べつの」中間を分泌してゆくのはいわば詩的書記の「運命」で、そのとき記述と心情が等分に曖昧化することで、心情がみたことのないものになるのではないかを賭けてみたのだった。
 
 

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2013年04月07日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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