J ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

Jのページです。

 
 
授業準備というか、忘れをとりもどすために、保坂和志『カフカ式練習帳』で付箋を入れた五十ほどの断章を拾い読みしていた。『小説の自由』『小説の誕生』『小説、世界の奏でる音楽』の三部作からしてそうなのだが、保坂和志の書くものは、このごろとみに自分(これを書いているぼく自身)の書くものに似てきているとおもう。むろん倒錯した言い方なのを承知しているのだが。

断片であること。日録のにおいがするということ。キーボードをたたくなどして、「ゆびが書いて」、書いてからそれをあたまが計測しているということ。むろんそれらは「ある感触」にむけて書かれる。精確に書かれていないという渦中の判断があれば身もだえもする。取り払ったり、方向を是正したり、もっとひとのすがたにならないかと研磨をかけてみたりする。そうして書かれたものにみずから驚き、自分を計量できない一定の厚みにするのだ。もどかしいのは記憶だったり、自分が奇想としてかんがえている感触を、粉飾なしの物質性で奇想と「みずからにつたえてみせる」ことだったりする。

保坂は小説家だから、そのように書くことが小説性の誕生にかかわってくる。なにが小説かと大上段から託宣するのではなく、書かれたものが過不足なく小説性と合致するように書く。進展が磁力をおびることが小説性だ。しかもその単位が極小であれば、ちいさなもの特有の息もでてくる。一瞬の詩想の書き散らかしにまごうこともいとわない。箴言領域に呑みこまれそうになりながら、その口の手前で生還をつげるように宙に浮くことが肝腎だ。記憶が慰撫されるのではなく、書くことがその自立性をとおしてしずかに賦活されること。ぼくならばその点を、詩性に合致させるように、ただ書くだけだ。

筆順に似た問題が起こっている。たとえばアルファベット大文字の「J」を手書きしてみる。横に一本線をのばし、その中央から湾曲する髭をたらす。その髭のまがりの動勢の渦中で、書くことを吊りあげてしまう。それでも動勢がのこる。むろんそれは、ただ書かれたものだ。なにかのひかりがあてられているとか、なにかの甘味がまぶされているとか、そういう二次的な加算もなく、物質的に「ただ自立している」――屈曲が自立している。「自分が書いたのだ」とおもえる他人の文章を無遠慮に引用し、自分の空間に叩きこむのも屈曲だ。のべつ書いているわけでもないので、書かれるものは非連続をつくり、その非連続がじつは連続の実質となる。日録がそのように誕生する――それも屈曲だ。

こころもとなさ、の領域がある。たとえば夢で間近に龍の浮遊を実感したとする。そのときの翼と髭のうごめき、青びかりする一枚一枚の鱗、うねりかたととぐろを巻こうとする潜勢、たてがみのなびき、爪と眼光の威圧、全身がかたちづくる空気の冷えと乱流、鰐のようにひらいた口からあふれてくる蒼白の生臭さなどを、ことばに移そうとする。とうぜん、ままならない。わたしが龍ではないためだ。

わたしは仕方なく、龍の細部がうごきながら連関している感触の浮遊を、横ずれをしいられながら描出するしかない。夢を書く、とはおよそそんなことで、それをむりやり物語に還元してしまうと、こころもとなさが痩せることになってしまう。所詮、書かれるものとは語順なのだという諦念を、書くゆびにしっかりとくくりつけること。つまりそれは、想起順ということではないのだ。想起など不確かなのだから。

漢字のもつ放散力を混ぜるのに長けたひとびとのいた、筆致の時代があった。そのときは、ことばのなにをえらべば適確かが書くことの課題で、そのためにひとは呻吟し渋った。彫琢鏤骨ということが信じられた。いまことばは手近な場所からもちだされ、「それ自体」のままに連接されて、それでもこころもとなさにむけて軋むように配備される。駄目な詩は、語や着想の選定に手柄意識があり、承認願望がすけてみえる。こうかんがえたらいい――手近な語であることが文脈(詩脈)のなかでそうではなくなり、わたしというまずしさに一定の厚みをもたらして、わたしをゆたかに不透明化させる、と。

わたしが、移動している単位がつくりつづける間断のない場所だという孤立の実感があったとすると、あのひともまた身体であるよりも先験的に、場所なのだ。たぶんそういう場はうごきつづけるというわるい予感からしか、真実味をうみだす逆転がやってこない。さきほど書きつけた、龍を描出する流儀とおなじだ。

要約なしに細部の連関が、転写の不可能に身もだえしながら書かれるということは、ひとつの場所がどんな想像と隣接しているかを建設的に書こうとすることに似ている。むろん実際の建設計画は建設物としてやがては空間に固定されるだろうが、書くことにある建設性への接近は、建設が壊れてゆく過程をも建設に替えてゆく、そんな可逆性を自己組織するということだ。こういうことははかなさを道具にした創造にしか起こらない。詩がそうだとすれば、音楽もそうだ。保坂和志がやろうとしていることは、小説にも不可逆的な建築性ではなく、「建てる」と「壊れる」が相関的な、それ自体の内部にひろがる可逆性を構築しようとすることではないか。なにかこう書くと絶望的な熱情が介在しているようにもみえるが、それはそういう詩がそうであるように、さらりと実現できてしまう。

なぜそうできるのかを、割合かんたんにいえるだろう。一文という単位は、つぎの一文を喚起するのだが、それはインスピレーションなどにはよらず、手さばきのなかの単純な接合による連続なのだということだ。つまり「龍の浮遊」が、同時に「龍の壊滅の浮遊」であることは、手さばきのなかでのみ起こるのだ。書く、混ぜる。この単純なことが相反を呼ぶ。日録的な連続が、実際は不連続を連続させている組成の理由もここにある。

たとえば映画をおもいおこして書くことは、まずはそこに出てきたからだを再創造することだろうが、そうなると、そのからだがどんな場所に囲われ、何のひかりを反映していたかが検証の焦点となる。このことを具体的に書く必要もなく、「語順」がありうべき具体性を代理する。ところがインスピレーションによって書かれる評価は、語順という元も子もないものに眼もくれず、想起順ということに拘泥してみせる。むろん想起は大切だが、その十分条件が順序であるわけでもない。画面生起に存在していた順序は、想起の不順性によってまったく非対称に、ただ語順にずれてしまう有限性が意識されなければならない。このあとで、たとえば「はだか」の登場してくる時間の場所に映画それぞれの判断のあることを、「映画の身体」そのものとしてとりこんでゆかなければならない。そうしていえるのだ、あのはだかが好きだったと。

なにか文脈に馴染まない、つまり全体に解消できない独立した細部が異物のようにころがることがある。それが書き順の「J」だ。まがったまま、停止してしまったもの。保坂はそれを書いている。「それ」を書くことは「その向こう」を書くこととおなじだと知って、「それ」を書いている。ということは、映画評そのものの点数も、そうしたものの多寡できまる。むろん多いほうが高得点なのだ。

「ひとは傘」と書いたときの暗喩のいやらしさ。だから暗喩は、「我肉を食べ放題や神の留守」と書くときのような、根拠のなさでこそ生き返るしかない。これは金原まさこ『カルナヴァル』中の一句、「現代詩手帖」四月号の俳句月評から拾ったものだ。

隣接性を刻々織りなそうとする換喩単位が、急にそこに放りこまれた意味のない接合材=ボルトのようにみえることがあって、それがたぶん換喩機能がもっとも使用されている具体箇所だ。換喩になっていない換喩と、暗喩になっていない暗喩。保坂は猫に愛着しながら、同時に猫に、いまつづったようなものを感知しているはずだ。空間内空間がそれ自体の空間にも周囲の空間にも馴染んでいないこと、そのかけがえのなさ。そこにこそ生命があるとすれば、そういう猫を書くものに散らすことが執念なのだ。執念は点在形であらわれる。

たくらまないことを身上にしている保坂は記述のなかにそんな記憶の猫をぶっきらぼうに放つが、場所の場所性をかんがえる詩は、そうした猫を、猫でないものに多様にかえてゆく。それらはみな詩脈のなかで「しずむようにうきあがって」、語順のなかにある書き順へと変転し、よくみるとおしなべて「J」のような形状をしているのだった。
 
 

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2013年04月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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