手による換喩
【手による換喩】
昨日はひとり五回という枠組、教員三人で担当する、映画にまつわるリレー授業の準備として、ロベール・ブレッソンの『スリ』を観なおしていた。ぼくの前期のテーマは「手の映画」。映画が人体のうちの手をどうとらえるか、その手のえがきかたの差異によって映画性の深度がどのような眩暈を生ずるか、ひいてはひとつの手がひとつの身体全体を救抜することはありうるか、それら手はどのように連携するか、などが考察の眼目となる。
換喩型の映画作家として第一に例示されるのがブレッソンだろう。冷徹な編集。『スリ』ではスリをおこなう手と、そのスリの顔がすばやいカッティングで分断され、存在は部分化という契機によって残酷に寸断されてゆく。その「寸断」は、情緒によって身体細部が連合されることを拒むブレッソンの俳優政策があってこそだ。
「俳優」と書いたがブレッソンは出演者を俳優とよばず、やがては「モデル」と固定的に呼称するようになる。モデル、素材。カメラのとらえる動作を純化し、それを映画の運動と直結させるためには、モデルに感情の表出をゆるさない。声の抑揚、表情の誇張、手振りなどがきびしく禁じられる。身体の表面がそのまま内面になるのだ。このとき無表情をしいられた顔に唯一、動的な徴候が付与される――多くは一瞬の視線移動だ。
視線移動はまずは周囲の計測だが、緊張の証左とも把握される。たとえば競馬場で主人公ミシェル(マルタン・ラサール)が婦人のハンドバッグを気配なくひらこうとするとき、ミシェルの顔とその手はカッティングをつうじ寸断されるが、視線移動のみをしるされた顔は手を情緒化せず、むろん手も顔を情緒化しない。その意味ではブレッソンの換喩単位は「相互無縁」という法則をもっていて、このことが相互性(隣接性)の唯一の根拠となる「身体の所在」を、一種の中性性として幻象〔げんしょう〕させることになる。おどろくべきことに、観客は顔と手を同時に視ることを禁じられるのだ。寸断/分有こそが全体所持であることは、むろん想像力と換喩の問題とかかわっている。
中性性。なんの変哲もない場所。了解可能なシチュエーション。粉飾もない。たとえば貧困のためにやむなく、といった設定の下支えもほぼ除去され、行為は行為みずからの推移のなかでただ自体化される。対立項としてフェリーニ型の映画作家をもってくれば、身体的現実の感触を無慈悲に定着しつくすブレッソンの特異性がわかるだろう。
フェリーニの映画に多くあるのは、非日常性の充満だ。それを構成する個物は、球形、子供、放浪表象、祝祭、周縁、キリスト教下の象徴性、こびと、化粧、閉じられずに露呈してしまった突発的なエロス、道化の涙といったものなどで、それらはそれら個々の奥行をつくりながら、全体では加算があって美的に充満する。フェリーニ映画の「運動」は刻々のカッティングの鼓動ではなく、いわば画面の深呼吸によって生ずる宇宙のゆるやかな推移で、これがバフチン的なカーニバルの要件、季節推移と深層で同調する点に妙味がある。そこでは事物そのものが情緒化される。ブレッソンではそうしたものはすべて夾雑物として殺がれている。
はなしは飛躍するようにおもわれるかもしれないが、いつの時代にも承認願望的な詩作者のつくるものはある程度がフェリーニ的だ。学殖語、稀用語どれでもいいのだが、まずは「すきな感触のことば」で詩空間を充満させ、構文にみずからの癖を露出し、独自性の量塊として自分の書きものを独善的におしだす。
逆に詩作が成熟してゆくということはブレッソン的になるということだ。それは中立性の想起に負っていて、ことばや文節のつくりかたからまず自分の特有性を放逐し、単位をはだかにして、刻々の展開=運動だけを主眼に置くようになる。このときいわば鼓動といったものだけが最終的にのこるが、そこに自らの身体の保証を賭けるのだ。
以上がいささか誇張された二元論なのは承知だが、フェリーニ型の詩作で眼もあてられないのは、あきらかな「充満」によって、内部張力がまし、展開の運動神経が弱体化されたり無化されたりしている点だろう。読み手はことばには驚かない。展開に驚くのだ。
ブレッソン型の換喩単位の展開は、どのような脅威化にむかうか。それは速さによってだ。ミシェルにスリ仲間のカッサジができたときに、顔/手の二元性は、手→手の自走性へとシフトを変換する。そのスピードはカッサジの実際の職業、奇術のように幻惑的で、おそらく可視性の限界と接触している。
なにかに似ているとおもうのは、水面をおよぐ蛇の速さとうねりだ。速さは「手→手」のつながりなのだが、うねりは「手/顔」の分断から生じ、それらがすばやくカット連合されて、この記憶可能性を超えた、「ゆれながら前進する」接合運動のなかで、蛇のような動物性を電撃的に擦過させる。全体における部分=フレーズの接合運動に魅せられている者は、そうしたブレッソン的な運動提示を、換喩詩の純粋形ととらえるだろう。
「みえること」が「みえないこと」とこすれあうとき、視覚、運動把握などが主体の深層で審問にかけられる。「みたことはみたといえ」という命題のなかで証言力がひびわれて、証言は別次元の証言へと横超するのだ。このことが存在の進展にほかならない。
リレー授業ではいずれ黒木和雄が果敢にもブレッソンと同題で撮った『スリ』も俎上にのせるだろう。おなじスリ行為を素材にすることで黒木さんはブレッソン的な換喩をとりこみながら、「同時に」手に「性質」をくわえる。往年はスリの神様だった原田芳雄の、アル中でふるえ衰退した手。手は最初、自己復活のための部位となり、それは最終的には破砕される感情になる。ところが性質をもった手は、教示、連携といったスリ機能からの拡張をも付帯され、つまり黒木版『スリ』では手の拡張が眩暈材料となるのだ。
ブレッソン『スリ』の手も書くことをした。酒のグラスももった。ただそれは「つながれなかった」。複数者の連携スリでも、札入れは手から手、ときには背広の内側を滑ったが、泥棒どうしの手は札入れを峻厳に移動させるだけで、媒介に徹したそれらの手はつながれていない。
最後、ミシェルはやがて配偶者となるだろうジャンヌ(マルカ・グリーン)と拘置所の面会所で金網ごしに出会う。このときもジャンヌは金網をつかむミシェルの手=拳にくちづけをするが、可能であったのにふたりの手は触れ合っていない。手は孤立を純化する部位としてただあった。ブレッソン『抵抗』は最後、脱出を果たした牢の「外部」を現実表象のまま別位相化したとき、逆に牢は個別性の砦だったという遡行的な認知をうながした。『スリ』のラストも「手の外部」がなにかという設問にたいし、「手には手であることしかない」「この映画がとらえたのはそのことだけだ」というブレッソン的な拒絶を反響させている。
ところで、ひとのする創造が一筋縄ではゆかないのは、飽和と純化が相補的なことではないだろうか。吉本隆明の『言語美』にはハイライトがいくつもあるのだが、たとえば古代的な叙事詩が抒情詩に移行するのは、恋情語や性愛語の水面上昇によってジャンルが別ジャンルへと決壊するためではなくて、係り結びなどの助詞機能が機能性をたかめることによって対象変化をこうむったためだという卓見がある。そこでは飽和の徴候は具体物(具体心情)ではなく、もっぱら機能から算段されて、実際は飽和とは自己加算ではなく、減算にもつうずる純化をつうじて達成されるということになる。詩作の要諦に直観でつうじた吉本だからなしえた認識だろう。
ブレッソン『スリ』では手の機能はスリ行為において飽和し、同時に純化して、だからカッティングの鼓動によって推移する手の刻々が換喩単位となった。いっぽう承認願望者に多い「飽和」詩には自己減算が働かず、飽和を飽和として同型増殖するだけだから、中立性にむけての純化が生成せず、(助詞機能などの)運動神経まで消失して、絶滅前の恐竜のような巨体をさらすだけになる。このように「図体であること」「怪獣であること」は、換喩詩の「線であること」の峻厳さとは、おなじジャンルとはいえないほどの懸隔がはさまっている。きつい言い方だが、「怪獣」がすきなひとは、ブレッソンを観て、自分の視覚を是正すべきだとおもう。
リレー授業の一回めはオリエンテーションのなかに、ここには書かなかった一本の秘蔵の短篇、その鑑賞時間をさしこむ。手がなにかにふれることを主題にしたもので、そこにはロメール『クレールの膝』の男性的な手の接触の成就を、女性側に奪還して、なおそれが説明できない可笑性にまみれる前代未聞の(しかしちいさな)エンディングがある。受講希望者の反応が愉しみだ。