直喩・暗喩・換喩
1) 直喩(シミリー)は類似連結が明瞭で、意味形成が固定的
2) 暗喩(メタファー)は類似が隠され、その解読をしいる、奥行への権力的な使嗾がある
3) 換喩(メトニミー)は部分の連結をながめるしかない美的無力だ
といった詩的な常識があったとする。それを覆すべく、出講のバスのなかで直喩・暗喩・換喩の例文(フレーズ)をかんがえ、「国語表現法」の授業で板書した。まあ、たいした例示でもないのだが、それらはこういうものだった。
1)月はむかしを映す鏡みたいだ
2)寝覚めの刻、狼の太陽がうかぶ
3)月光が羽を梳き、はんかちを痩せる
1は「みたい」が明示された直喩だが、フレーズの眼目は「月≒鏡」という関係式ではなく、その関係式から想像される「むかし」の様相のほうにある。ところがそれは、月をどうイメージするかで多様に分岐するしかない。つまり、月が天心にある凝縮した蒼白なのか、暖色をたたえた春の月なのか、血紅ににじむのぼりたての山の端の満月なのかなどで、映される「むかし」がかえって決定不能性におちいる。したがって、1のフレーズは「月≒鏡」という関係式を前面にだしたことによって、「逆に」フレーズのなかにある「むかし」を強度の謎に置き換えてゆく。
2の暗喩はどこにあるのか。「狼の太陽」が夜行性をもつ狼にとって行方と獲物の所在を照らす光源であることから、「月」を古来から意味すると知れば(かんがえれば)、そこに解かれるべき暗喩がわだかまっていたと知れる。ところがこのフレーズでは「狼の太陽が」の「が」が問題となる――主格助詞「は」ではなく、「が」がえらばれているのだ。「は」であれば、「寝覚め」の主体はそのまま狼だろうが、「が」であれば間接性がひそかに導入され、フレーズ全体が日本語特性に応じて一人称主語を秘匿している感触がうまれる。結果、フレーズは意味補足されてこう読み替えられる――《〔わたしの〕寝覚めの刻、狼の太陽がうかぶ》。つまりそこではあらたに、わたしに、狼(狼狂)の属性が架橋されているふくみがにじみだす。けれどもふくみはあくまでも「にじみ」のままだから謎を崩さない。それゆえ「狼の太陽」という暗喩解読は、あらたな解読すべき要素をくりこんできて、フレーズが「終わらない」。
3はけっして解かれない。月光の魔力・腐蝕力は、バシュラールの摘出のように、《月光は水をわるくする》など俚諺の域に達しているが、その認識をこえる「部分」配列のねじれがあって、「全体化」ができないのだ。確認のため、例示フレーズを文節単位の「部分」に分解してみる。《a「月光が」/b「羽を」/c「梳き、」/d「はんかちを」/e「痩せる」》。cの動詞「梳く」とeの動詞「痩せる」は、ともに減少を幻想させる縮減型の動詞であり(『東海道四谷怪談』の「岩」を想起)、c-eの関係を隣接性(縁語性)とよべる。またbの名詞「羽」とdの名詞「はんかち」はともに月光の作用客体であるほか、「うすさ」「しろさ」「はかなさ」などの属性によって、これまた隣接関係、縁語関係にあるように印象される。ところがその印象は成立した途端、「はんかちに羽がある」という奇怪な物質性を前面におしだす。問題は部分配列(の順序)というべきかもしれない。「A-縁語A」「B-縁語B」と穏当に配列されるのではなく、「A-B」「縁語A-縁語B」と価値領域が相互を「噛みこむ」ように配列されていることで、空間が安定しないのだ。
さらには《はんかち「を」痩せる》にある助詞「を」の誤用。結果、月光は「はんかちにある羽を梳きながら、はんかちのなかに入りこんで、はんかちもろとも自ら痩身化=弱体化する」という、空間の奇怪な入れ子性が浮上してきて、このフレーズは月光のたんなる腐蝕力ではなく、もっと作用範囲のおおきい浸透力と作用性に想像を移しているような感慨が生ずるが、それも「たしかではない」。「それのみの」分節配列をつうじ、読者を脱力させるだけだ。この脱力を克服するためには、「ねじれ」を呑みこんで、全体を部分に分解されうる全体として「そのまま」肯定するしかないことになる。したがってフレーズ3は解決されない語順なのだった。それでも3の「空間」はねじれと生成をかたどったものとして、それじたいは「たしか」だという逆説をももつ。
――以上、備忘メモでした。
そういえば昨日は才覚ある詩作者のリプロデュース仕事を完成させたという僥倖もあった。好結果が生じたら、いずれ報告をいたします。